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1980年4月のカメラ事情

ミノルタX-7とオリンパスOM10を迎え入れた。X-7といえば宮崎美子であり、OM10といえば大場久美子である。これは我々世代の男性には言わずと知れたことであろう。

中学2年の1979年途中で、学校の都合によりそれまで熱心に活動していた科学クラブが廃止。仕方なく写真クラブに入った。ところが写真の虜になり、それまで家にあったハーフサイズカメラでは物足りなくなる。中学3年の1980年春。父親に買ってもらったのがペンタックスMV1だった。

なぜMV1を選んだのか。当時のカメラ事情について時々思い出す。きちんとまとめてみようと思った。

親に買ってもらうので高価なものは無理である。偶然だがその当時は、絞り優先AEの初心者向け一眼レフカメラを各メーカーが出し始めた時期だった。一眼レフは高価で大きく重く難しい、というイメージを破りつつあったのだ。1980年代の幕開けだ。山口百恵が引退し松田聖子がデビューする。王貞治が引退し原辰徳が入団する。

1980年4月に販売されていた、絞り優先AE搭載のそのクラスのカメラを列挙してみよう。ネットで調べたものだ。調査は入念にしたが不明な点も多い。


ミノルタX-7
宮崎美子
1980年3月
同年7月?秋?にブラックが発売
シルバー
ボディ39,500円
MD50/1.7付59,500円
ブラック
ボディ44,500円
MD50/1.7付64,500円

オリンパスOM10
大場久美子
1979年6月
シルバー
ボディ40,000円
OM50/1.8付58,500円
ブラック
ボディ43,500円
OM50/1.8付61,500円

ニコンEM
1980年3月
ボディ
ブラックのみ
ボディ40,000円
AI50/1.8S付60,000円

キヤノンAV-1
1979年5月
シルバー
ボディ40,000円
NewFD50/2付57,000円(発売時)
ブラック
NewFD50/2付59,000円
(ネットにあったカタログ画像の情報)
AV-1はプラスチック製なので
ブラックが高いとは考えられず、
年月が経過して値上げしたと思われる

ペンタックスMV1
1979年9月
当初はブラックのみ
のちにシルバーも出たが台数は少ない
ブラック
ボディ37,000円
M50/2付49,500円


一眼レフの購入を本格的に考えていた頃に、テレビCMや雑誌の広告で出まくっていたのが、ミノルタX-7の宮崎美子である。「いまのキミはピカピカに光って」の歌が流れ、ちょっとぽっちゃりとした彼女がトレーナーとジーパン(その当時はジーンズなんて言わない。もちろんデニムなんて気取った言い方もない。ジーパンだ)を脱ぎにくそうに脱ぐ。

私は当時14歳だったが、これはとんでもなく衝撃的だった。昭和の時代。家族と一緒にテレビを見ていたので「興味のないふり」をするのが大変だったのだ。

あまりにも有名なCMシーン。脱ぎ始めでもなく脱ぎ終わりでもなく、裏返しになったジーパンが左足の膝上まで来た頃が最高だ。ちょっとだけ見えて揺れる胸。脇腹と太腿のボリュームがよく確認できる。15秒CMはその瞬間にバストアップに切り替わってしまうが、30秒CMはその後の余韻も楽しむことができる。

中学3年生だった私は、篠山紀信撮影の雑誌グラビアの切り抜きを透明な下敷きに入れていた。白いキャミソールの2番目のボタンに手をかけてカメラを見ている写真だ。服のサイズが小さめで胸の谷間や膨らみもあらわである。15歳の男子なんて頭の中はそればかりなのだ。許してほしい。


一方の大場久美子。オリンパスOM10は1979年9月発売ということもあり、当時はまだ一眼レフへの興味が薄かったのか、CMはあまりリアルタイムでの記憶がない。大場久美子は「一億人の妹」というキャッチコピーで売り出していて、私よりもっと上の世代に人気だったと思う。

彼女は水着姿よりも着衣のCMや広告のほうがドキッとする。「キミが好きだと言うかわりに、僕はシャッターを押した。」雑誌の広告で見るたびに「そうそう」と首がもげるほどにうなずいた高校時代。気になる女子に頼んでモデルになってもらい、同じ写真部員にレフを持たせて85mmレンズを女子に向けるあの時の心持ちだ。

英語力不足でコミュニケーションが満足にできない海外の交換留学生も撮った。相手に対してもアシスタントに対してもそうだが、現場でのディレクション能力の訓練はこの時から始まったのだなあ。以上、余談終わり。

CMでは公園の水飲み場の蛇口から勢いよく出る水で、唇や頬や顎を濡らしている。真っ直ぐに上を向いて屹立した先の丸い蛇口である。「立形水飲水栓」と言うらしい。もー…えっちー!今ならすぐに問題視されそうである。


以上、現在57歳の私が中学生に戻って書いてみた。実に恥ずかしいが後悔はしていない。

さらにこの流れで書いてしまうが、1982年1月には早見優のペンタックスMGが発売になる。外観はMV1だが機能はMEに近づいている。このとき私は高校1年の終わり。中3の春から高1の冬。この1年8ヶ月の差は大きい。それなりに女性とは何かを知って、宮崎美子の頃よりも落ち着いていたと思う。

早見優は可愛いけれど、宮崎美子や大場久美子のような湿度に欠けていた。しかし「君がオトナになる頃、僕はプロになっているかもしれない。」の雑誌広告。将来の道を決めつつあった自分がそのまま広告になったようで、なんだか気恥ずかしい思いがしたのだった。自意識過剰も甚だしい。


さて前述した五大メーカーの五機種。なぜかX-7とOM10は選択肢になかった。これについては後述する。当時はニコンの存在は絶対的だった。EMは候補だったが、いかんせん発売したばかりな上に、地方のカメラ店ではニコンはほぼ値引きしなかった。さらにこのEMはニコンらしくない気がして早々に候補から外れた。

キヤノンAV-1。もともとキヤノンはシャッター優先を得意としており、アメリカなどの要望に従って渋々作ったものだそうだ。もちろん当時はそんな事は知らない。しかしキヤノンが持つスポーティーなイメージが自分に合わず却下。

そしてペンタックスMV1。これは価格も安くイメージも自分にピッタリだった。

1980年4月19日(土)。父親とカメラ店に買いに行った。何でも現金で買うのが好きだった父(家も現金で建てた!)が、なぜか月賦の手続きをした。当時は分割じゃなく「ゲップ」と言った。現代のようにクレジットやカード払いが簡単じゃなかった頃だ。のちに母親から聞かされた話では「ポンと簡単に買えると思われては良くない」との父のパフォーマンスだったらしい。

しかしこれをきっかけにして、父が思い描いていた人生設計は大きく狂うことになる。将来、良一は公務員になり地元の女性と結婚しての同居を夢見ていたようであった。父は免許もないのに息子が乗るだろうとガレージを作り、ゆくゆくは二世帯住宅に建て替える計画だったのだ。だがカメラと写真に取り憑かれた息子は東京に出ていって帰ってこないのだった。

さて前述したが、なぜミノルタとオリンパスを選択肢から外したのかである。やはり世間的にCMの印象が強く、なんとなく恥ずかしかったのではないかと今になって思う。さんざん楽しませてもらったのに宮崎美子と大場久美子に申し訳ないという思いがずーっとあった。アホである。

いまさら買っても両人が喜ぶわけではない。しかし自分の気持ちにケリが付いた。シルバーで正統派を気取ろうかと考えたが、やっぱり好きなブラックにしてしまうところが私の弱さだ。

X-7はブラックでアキュートマットになった。これは大きな違いだ。あとはグリップが付いた。X-7のミノルタのロゴは旧ロゴの方が多いが、これは新ロゴだ。1981年2月に出たCLEは新ロゴなので、その頃に変更になったものだろう。

OM10も同じくブラック。こちらはシルバーと機能面での違いはない。オート専用で良いかとも考えたが、マニュアルアダプターが安かったので購入した。これを付けるとフルマニュアルでも撮影できる。不思議な仕組みである。


あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
中原中也

情けない自分と向き合おう


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