『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』

12月3日火曜日、晴れ

言語学者がなにを研究しているのか。ぐうたらなイタチたちを主人公に据え言葉を研究する動物たちを訪ねさせ、それぞれなにができてその限界はどこにあるかを語らせるという筋立ての物語。

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「言葉が分かった」と言えるには、少なくとも何ができなくてはならないか。
「言葉が分かる」ということは、少なくとも「何と違う」のか。

・言葉が聞き取れること
・おしゃべりができること
・質問に正しく答えること
・言葉と外の世界を関連づけられること
・文と文の論理的な関係がわかること
・単語の意味について知識を持っていること
・話し手の意図を推測すること

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イタチのちゃらんぽらんさのせいで湧きおこる腹立たしさは昨日書いたので措いて。ふだんの生活、会話で、僕たちは文章の構造や論理構造を意識しているだろうか?

もちろん「推論」をしたり、同じ意味の文章を選んだり(あるいは違うものを抜き出したり)というタスクはある。あるけれど、これが必要とされるのはごく例外的な状況ではないだろうか。
普段の会話にしてみれば、論理なぞより「直感」でズビーっ! と答えが「浮かび」、しかるのちに(それが必要とされるなら)結論を説明する「合理的」な道筋を探すものではあるまいか。「あ! わかった!」という無責任でとらえどころのない直感。(ひょっとするとそれは論理をいくども積み重ねてできあがった思考の高速道路を情報が突っ走った結果なのかもしれないけれど)

そんなに複雑なことをしているつもりはなくて、でもいざ説明しようとすると歯が立たない。そういう難しさが僕たちの「考える力」には、ある。

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ふだんこのように書いたりしゃべったりする言葉を「自然言語」といい、一方でプログラムやエスペラント語のように、ある目的にそって組み立てられた一群を「人工言語」といったりする。(自然言語にしたって人間が恣意的に作り上げてきた人工言語だとはおもう。少なくとも自然にわかるようなものではない。それは僕が英語がわからないことからも自然ではないといえよう)

人工言語、例えばプログラミング言語Cを頭において、「C言語がわかる」ということはどういうことだろうか? なにができるようになったら「わかった」といえるだろうか?

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