【偉人伝】マルコムX -後編-
ついに逮捕されてしまったマルコム。
この後、彼はどのようにして著名な活動家に成長していくのか…
その続きを一緒に紐解いていきましょう。
獄中のサタン
マルコムがボストンにあるチャールズタウン刑務所に投獄されたのは1946年のことです。
監獄は漫画に出てくるような劣悪な環境でした。
汚く窮屈な監房にバケツに蓋をつけただけの簡易便所がひとつ。
常に排泄の匂いがたちこめていたそうです。
そんな環境下でマルコムの心はより荒んでいきます。
その苦しみの矛先は、次第に聖書やキリスト教(神)へと向かっていきます。父はキリスト教の牧師でしたが、幼少期より神の存在など信じていなかった彼はキリスト教を激しく罵倒し始めます。そのあまりに非宗教的な態度に周囲は"サタン"と名付け恐るほどでした。
そんな監獄生活で、マルコムに転機が訪れます。
ある1人の博識な黒人囚と出会いです。
歴史と宗教に明るいその男は、刑務作業が終わるといつも一人でに語り始め、その興味深い話を聞こうと黒白人種問わず、看守さえも集まってくるのでした。マルコムもその群衆のうちの一人でした。この希望の欠片もない監獄でただ唯一、皆の尊敬を集める人物。
今までハスラーとして、犯罪行為と金儲けで名声を得てきたマルコムにとって"知識と話術"で尊敬を集める彼の存在は、今まで出会ってきた誰とも違いました。マルコムは彼のようになれたらと密かに羨むようになり、次第に彼には心を開くようになります。
ある時そんな彼からせっかく頭がキレるのだから、本を読み、通信教育を受けなさいと助言を受けます。
かつては勉強が得意だったマルコムでしたが、中学での挫折以降、金にならない勉強はしまいと決め込んでいました。
しかし、その言葉を受けまた少しずつ本を読み始めます。
またこのタイミングでボストンに住む異母姉の尽力により、1948年には犯罪者の更生を目的とした、実験的なノーフォーク刑務所に移送されることになります。
その刑務所には集会や討論会にポジティブな受刑者が多く、歴史や宗教に関する蔵書も大量にあるという彼の始めた取り組みにぴったりの環境でした。
このような出会いと環境の変化が、彼の第2の人生への分岐点でした。
黒人本来の宗教
新たな刑務所に移送される少し前、弟から1通の手紙を受け取ります。
そうする事で刑務所から出ることができるならば!とその言葉を信じ、マルコムはわけのわからぬままその指示に従います。それが、イスラム教の教えとは知らずに。
監獄の外では、マルコムの兄弟たちは皆、黒人本来の宗教と呼ばれる"ネイション・オブ・イスラム(Nation of Islam,NOI)"という新宗教(団体)に改宗していました。※以後NOIと記述
その宗教は、伝統的なイスラム教をベースとしているものの(一部独自の解釈あり)、"白人は悪魔で、黒人は洗脳されてきた。人類の起源は黒人であり、偉大な人種である。"という黒人至上主義的な思想が含まれていました。
この宗教について紹介された当初、マルコムはイスラム教というよりはむしろ、このような黒人の悲劇的な歴史に大きな衝撃を受けました。
規模の小さかったNOIが急速に広まっていった背景として、アメリカにおける黒人の悲劇的な歴史というものの後押しは大きく、マルコムのような黒人囚を中心に信者が増えていきました。黒人囚には、それまでに白人社会での不条理さを痛感していて、その教えを受け入れる土壌が完成されていたからです。
NOIの最高指導者であるイライジャ・ムハマドとコンタクトを取るようにマルコムは家族からすすめられ、彼との文通を始めます。
マルコム覚醒
ムハマドと文通をするにあたりマルコムに2つの壁が立ちはだかりました。
1つは、自分の字すら自身で読めないほど字が汚いということ。
2つ目は、英語のつづりと文法がめちゃくちゃだということ。
今まで口八丁手八丁で相手をうまく丸め込んできたがゆえに、自分が思っていることを文字として手紙に綴ることができないもどかしさにマルコムは苦しみました。
この悔しさが彼の異常なまでの知への原動力となります。
まずマルコムが最初に取り組んだことは、字の汚なさを改善すべく辞書を隅から隅までそっくり書き写すことでした。
刑務所から出るまでに100万語は書き写したと自伝で語っています。膨大な書き写しを重ねるにつれ、副産物として言葉の意味と使い方、歴史上の人物や場所、出来事もまとめて知る事ができました。
そうすると今まで読むフリだった読書も、
この本は何について語っているのか?
何を伝えたいのか?がわかるようになってきました。
それからというもの消灯後もわずかな月明かりを頼りに没頭して読み続け、自由時間のほぼ全てを読書に捧げました。
その凄まじい勉強量は、投獄前2.0あった視力を10分の1の0.2にまで落とす程でした。彼を象徴するあのサーモントタイプの眼鏡は彼の努力の結晶だったのです。
彼は読書を通じてNOIの教えを裏付けるような歴史的真実。つまり、かつてキリスト教布教という名目で白人がどのように他人種を侵略してきたか。そして、隠されてきた黒人の栄光の歴史について知っていきます。
マルコムは学んだ知識をあの黒人囚のように獄中の仲間達に話し始めます。
毎週開催される討論会には欠かさず参加しました。
人と討論したり、群衆に向けて演説することは新たな知識を得るのと同じくらい興奮と快感を覚えました。この経験が後にあの雄弁なマルコムXの下地をつくったのでした。
投獄から6年の月日が流れ、1952年遂にマルコムは釈放されたのでした。
後に、マルコムはその卓越した言葉遣いと知性の高さからマスコミから一流大学を卒業したものだとよく勘違いされました。『出身大学はどこか?』という質問に『刑務所という名の大学だ』と答えたことは有名なエピソードです。
マルコムほど刑務所で人生を変えた人はいないのではないでしょうか?
マルコム“X”
釈放されたマルコムは、本格的にイスラム教とNOIについて学ぶために家族が住むデトロイトへ身を寄せます。
刑務所内ではできなかったムスリム(イスラム教徒)の日課を実践しました。
マルコムはNOIのデトロイト寺院(その当時は商店街の一角を間借りしたもの)に週3回兄弟と通い、NOIに対する理解を深めていきます。
そして、文通を重ねた最高指導者イライジャ・ムハマドと遂に面会を果たします。
ムハマドから直に説法を受けることで、より深く彼を心酔し、手足となって働くことを決心します。
白人社会と分離を行い、白人によって虐げられ、搾取され続けてきた黒人同胞を救う。
これが彼の生きる目標となりました。マルコムはデトロイトに戻り、正式に教団員となり"X"という姓を与えられます。
"X"はアフリカから連れ去られ、本当の姓が永久にわからないアフリカ系アメリカ人皆の姓を表しています。
こうして"マルコムX"は誕生しました。
それからマルコムの熱心な勧誘活動や講話により、今まで伸び悩んでいたデトロイト寺院の信者数は数ヶ月で3倍に倍増します。
その功績がムハマドに認められ、1年足らずでいち教団員から導師に昇格。
それからボストン・フィラデルフィアへ次々と派遣され、各地の寺院設立に寄与します。そして、ついにあの馴染みの街・ニューヨークに導師として帰ってきます。
ニューヨークという大都市を任されるマルコムは、もはや導師としても別格の存在で、教団にとってなくてはならない存在となっていました。大都市とはいえ、当時はニューヨーク中の黒人イスラム教徒を集めてもバス1台にも満たないほどの信者数でした。
マルコム流の言葉で言うところの”白人からの洗脳”を強く受けたニューヨークの黒人を改宗させることは他の街以上に苦戦を強いられました。しかし、地道な勧誘活動によってニューヨーク寺院も軌道に載せることができ、のちに教団の活動において中心地の役割を果たす寺院に成長していったのでした。
1956年頃になると、NOIは水面下でかなりの規模の宗教団体に成長していました。
NOIが世に知られるようになったきっかけはいくつかあります。
一つはハーレムで起きたジョンソン・ヒントン事件です。
教団員が白人警官に警棒で殴られ重症を負わされ、そのまま警察署に連行されたという事件が起こります。
この知らせを聞きつけたマルコムは、30分以内に50人もの"イスラムの果実(白人差別主義者に対抗するための自衛集団)"をその警察署に集結させ、不当な行いに抗議しました。マルコム達の抗議を受け、仲間は病院で適切な手当を受け、さらに訴訟でニューヨーク市から7万ドルという多額な賠償金をも勝ち取ったのでした。
この結果は新聞で大々的に報じられました。
もう一つは、テレビや雑誌なのどメディア出演です。
大きな舞台でも変わらずマルコムは、歯に衣着せぬ物言いで、白人と白人社会を痛烈に批判していきます。
またその批判の矛先は、白人のみならず白人社会との"融合"を果たした地位のある黒人にも飛び火します。今もなお虐げられている同胞が大勢いる中で、仲間を救おうと尽力せず、白人側について地位と名誉と金に固執する黒人達を小説の登場人物になぞらえて”アンクル・トム(腰抜けの黒人ども)”と罵倒したのでした。
1960年代初頭、彼らは"ブラック・ムスリムズ"(黒人イスラム教徒)と呼ばれアメリカ中に賛否両論を巻き起こしました。
その後、かつて身を寄せ合いながら商店街の一角で行った集会も、大規模なスタジアムを借りて講演会を催すまでに教団は急成長を遂げました。
教団が隆盛を誇った頃、同じく教団員のベティXと結婚し、その後6人の子宝に恵まれます。
またマルコムは、教団における初めての役職・全国導師長に任命され、名実ともに導師のTOPとなったのでした。
それからというもの教団の顔として、中卒の学歴しかないマルコムはハーバードやイェール大学といった50を越える名門大学から招聘され、討論・講演を行うようになりました。
20世紀で最も偉大なスポーツ選手と称される
ボクシングヘビー級王者モハメド・アリも彼に共鳴し、NOIに入団しています。
その知名度と人気は、もはや最高指導者ムハマドを凌ぐほどとなっていくのでした。
脱退
教団の勢いが増す一方で、教団のスポークスマンとして有名になっていくマルコムを妬む教団員が現れ始めます。
マルコムはいついかなる講演においても常にムハマドを立てる言動を心がけていましたが、彼が教団を乗っ取る気なのだという噂が立つようになります。反マルコム派は彼の熱心な活動を良しとせず、邪魔さえするようになります。
そんな状況下で、衝撃的なニュースがマルコムの耳に飛び込んできます。
ムハマドには長年連れ添った妻がいます。
イスラム教において不倫は重罪で、これまでこれを犯した教団員には不名誉な教団除名処分が課せられてきました。
教えに反する行いを指導者本人が密かに行なっていたのでした。
マルコムはムハマドを崇拝するあまりその噂を信じようとしませんでしたが、事実確認のため元秘書達を訪れた際、その真相共にムハマドがマルコムの事を危険人物だと陰ではさんざん悪口を言って、妬んでいたことを同時に知らされます。
マルコムはひどく傷つきますが、それでもなお自分をどん底から救い上げてくれた教団の為、尊師ムハマドの為、悪い噂をどうにか抑え込み教団が弱体化するのを防ごうとします。
しかし反マルコム派は、このムハマドの悪い噂はマルコムが吹聴しているのだとし、マルコムを共通の敵としてでっち上げ団員を団結させていくのでした。
なんとかしようと、もがけばもがくほど沼の深みにはまっていくような状態。
そして、あのショッキングな事件が決定打となります。
この暗殺事件の混乱の最中、かねてから予定された演会で大統領の暗殺について記者からの質問に対して、"起こるべくして起こった当然の結果"とマルコムはコメントしてしまいます。
この発言が大々的にメディアで報じられ、
教団のイメージは失墜してしまいます。
この失言の罰としてマルコムには90日間の活動禁止命令が出されてしまいます。
常にマルコムを排除しようと企んでいた反マルコム派達は、この好機にマルコム暗殺の命令を彼の古巣ニューヨーク寺院から発し、マルコムは追われる身となり強制的に脱退を強いられてしまいます。
新組織設立と聖地巡礼
人生の岐路に立ち、マルコムはこれからの生き方について改めて見つめ直します。
精神的、宗教的、経済的、政治的に踏みつけられてきた弱い立場にある黒人同胞を救い出す事。
これが彼にとって人生における使命であり、最初から一貫して変わらぬ生き甲斐でした。
マルコムはすぐさまNOIから独立した新組織を立ち上げるべく奔走します。
彼の新組織設立の噂はたちまちに広まり、階級・宗教・黒白問わず支援の申し出が殺到し、"マスリム・モスク・インク(Muslim Mosque, Inc., MMI))"を設立することができました。
様々な噂が飛び交う中こうしてマルコムに支援が集まったのは、彼自身がゲトーに育ち、街の有名な悪党として一度は悪事に手を染めながらも、這い上がって自らの手で人生を変えてきた。黒人の希望そのものだったからです。
かつての仲間から命を狙われていることもあり、信用できるものにしか伝えず、マルコムは念願であった聖地巡礼に向かいます。
全ての正統派イスラム教徒にとって、"ハジ"と呼ばれるメッカ巡礼は生涯果たすべき義務とされています。
世界中から様々な人種のイスラム教徒がこの最大の義務を果たしにメッカへやってきます。アメリカでは有名なマルコムもそのムスリム達のたった1人にすぎません。
メッカについたマルコムはまず、正統派イスラム教と自分が学んできたイスラム教との違いに愕然とします。祈り方から何もかもが全く違ったのでした。
NOIでは教団のNO.2として、教団員へ指導し、競技場を埋め尽くす人に対して説法を行ってきたマルコムが、メッカでは人に祈り方から教えてもらわなければ何もできない素人同然のような状態でした。
そんな現実を叩きつけられると同時に、アメリカでは感じることのできなかった人種を越えた黒人への分け隔てない温かなもてなしを受け感動します。そこにはイスラム圏の白人からのもてなしも含まれていました。
マルコムは今まで悪魔と呼んでいた"白人"対する考え方はこのメッカ滞在中に大きく変化していきます。
今まで"悪魔"と自分が定義していたのは、人種としての白人ではなく、正確にはアメリカ国内における白人の黒人に対する態度と行動を指していて、白人全てが憎むべき対象ではないと気づきます。
白人の差別心理を育てているのはアメリカの政治・経済・社会そのものなのだと考えるようになりました。
それと同時に、国や肌の色を越えて隣人を愛すことのできるイスラム教の素晴らしさに改めて感激を覚えたのでした。
マルコムは正統なイスラム教であるスンニ派に改宗し、エル・ハッジ・マリク・エル=シャバーズ(el-Hajj Malik el-Shabazz)として名乗り始めます。
メッカ巡礼後、その足で黒人の故郷であるアフリカをまわる旅に出ます。
アフリカでは黒人が黒人として誇らしく生きていました。
自分たちが本来あるべき姿を直接目の当たりにしました。
アフリカの要人との会談を通じて、アフリカとアフリカ系アメリカ人との関係性を強めるべきだという思いはより一層強くなったのでした。
その後、マルコムはNYに帰国します。
1965年
キング牧師らの働きにより相次いで黒人の人権が保障された法律が生まれたものの、1964年からの数年間は"長い暑い夏"と呼ばれ、名ばかりの効力に対してアメリカ各地で黒人暴動が多発しました。アメリカが誕生してから積もりに積もった黒人の恨みが噴出した結果でした。海外滞在中のマルコムは、それらの暴動の黒幕としていつも噂されてました。
帰国後マルコムは、メッカ巡礼やアフリカでの旅を経て、白人皆が憎むべき存在であるというかつての自分の言動は間違いであり、誠実な白人がいることを知ったことを公表し、自分の新たな立場を世にアピールしました。
しかし、アメリカに巣食う人種差別を根本的に解決するには、白人は白人で、黒人は黒人で、融合することなく独立してこの問題に取り組むべきだという考えは変わりませんでした。
依然として命を常時狙われていたマルコムは、自分はいつ殺されてもおかしくない。父や一族がそうであったように自分も若くして壮絶な死を迎えるはずだという直感を感じていました。
実際自宅に火炎瓶を投げ入れられ自宅が全焼するなど何度も襲撃を受けていました。
アメリカの体内に巣食う人種差別主義という癌を破壊できるのであれば死んで本望だという覚悟を持って1日1日を過ごしていました。
そしてマルコムの直感通り、1965年ハーレムのオーデュボン・ボールルームで行われた演説集会で前列にいた数人の男達から15発の銃弾を受け、即死でこの世を去りました。
当然この集会の際も暗殺を警戒していましたが、あえてマルコムは観客の持ち物検査はしませんでした。
持ち物検査徹底的に行い、常に戦々恐々としていた決別したムハマドを思い起こすこと。そして、演説中に同胞の黒人に殺されるようであればすでにこの世に自分の居場所はないという理由だったそうです。
この事件は3人のNOIの団員が逮捕されたが、教団は事件との関係を否定する声明を発表し、3人による単独の犯行として、終身刑を言い渡され一度は幕引きしました。
しかし、このうち2名はついに最近の2021年に冤罪が確定しています。
本当にNOIによる組織的な犯行ではなかったのか?生前マルコムが危惧していたFBI、CIAによる協力もあったのではないのか?
未だこの58年前の事件の真相は謎に包まれているのです。
最後に
僕自身マルコムXという人物の名前を知っているという程度でした。
この記事は500ページを越えるマルコムとアレックス・ヘイリィの対話から生まれた自伝をベースにマルコムの人生を要約しています。
全てを書き込むととんでもない文量になってしまうので、重要な部分だけを抜粋して繋げています。
様々な体験がマルコムXという人間を作り上げる伏線となっているので、より深く知りたい方はぜひ読んでみてください。
読破するのは大変でしたが、得られるものもすごく大きいです。この本を通じて、マルコムの激動の人生については勿論のこと、1930〜60年代にかけての時代背景。黒人の生活ぶり。今もなお根強く残る黒人差別の変遷について深く学ぶことができ意義のある時間になりました。
スパイク・リーが監督を、マルコム役をデンゼル・ワシントンが務めた映画版もあるのでこちらもおすすめです。
前編・後編と長文にお付き合いいただきありがとうございました!
よかったらスキ・フォローよろしくお願い致します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?