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責任と無責任のバランス。

こんにちは。

青山にてフリーランス美容師をやっております加藤亮平と申します。


個人事業主として活動を始めて今年で7年目になるのですが、最近僕らフリーランスが背負うべき責任の行方みたいなことを考える場面が多くなるようになりました。

「フリーランスは自由だー!」なんて言われたりしますが、自由の定義というのもなってみて「あ、ちょっと履き違えてたわ」なんて思うこともたくさんあります。

おそらく自由というのは責任と無責任のバランスがとても重要だと思っていて、そこを履き違えると思ったのと違うなんてことになるのかなと思います。


⬛︎協働していく場合において

会社や企業という組織の中では役職や立ち位置によっては的確な意見を求められる場合もあるかと思います。

何かを決める際の判断というのは誰でもできるわけではなくて、きちんとそれを決定する人がいたりしますよね。

むしろそういったポジションにいる方の場合、判断を下すことや舵取りをすることが一番の仕事であり、もしかしたらそれが義務であるのかもしれません。

全員で同じゴールを目指していく途中での軌道修正というのは少し間違った方を向こうとした場合非常に重要で、常に冷静かつ的確な判断が求められると思います。

誰かが誰かに言葉や行動で指摘し示すことは全員が同じ方向を向き、協働していく上で必要不可欠なアクションであるはずです。


とはいえ当然その一言や行動にはどうやっても必ず責任というものがくっついてきてしまいます。

それをやりがいととるかプレッシャーととるか、人によってもしくは物事の大きさによっては捉え方は様々だと思います。


ちなみに僕は以前正社員として美容師をしていた頃、この責任をやりがいではなくプレッシャーに感じ、店長という役職を断った経験があります。

今思えば役職によって背負うべき責任というのは経験しておけばよかったなと思います。


⬛︎協働を共有しない場合ってどうなの?

ちょっと前置きが長くなりましたがここからが今回の本題です。

僕は今、正社員という働きからフリーランスという働き方にシフトチェンジして7年目に入りました。

フリーランスにおけるこういった責任や義務の所在ってどうなっているのか的なことをちょっと考えてみようと思います。


僕たちは会社や企業などの組織に属さないため目指す場所や目標は個人によって当然異なります。

むしろそういったものを誰かと共有しないことが「自由」と捉えられる場合だってあるかもしれません。


そのため個人で活動をしていく上では協働という関係性が無い分、例えば誰かが誰かの上に立ちディレクションをするというようなことも無いことのように思います。

こういった関係性というのは、いい意味で上に立つ権利や義理がない分、それによって生じる煩わしさを感じることも少ないのも確かです。

自分の決断や一言によって誰かのその後の人生に影響を及ぼすよすということがあまり無い環境というのは極端な話、自己管理だけ徹底しておけばその他の誰かのことを考えたアクションも極端に求められない状態であると言えます。


⬛︎無責任は共有しない

とはいえ会社や組織ではなく、自由度の高い人同士のコミュニティというのはそういった関係性が限りなく平等であるが故にちょっと難しいなと思うことがります。


それは言葉やアクションのキャッチボールが思いの外スムーズにできてしまうということ、つまりコミュニケーションを取る上での立場的な弊害がないということです。

「なんだいいことじゃないか!」と思われるかもしれません。

もちろんいいことだと思います。


僕自身多くの人同士がフラットな関係で繋がれるということはすごく魅力に感じますし、何より発信側が自分の価値観を自由に発言することだけでなく、受け手側も自らの意思で誰かの言葉を自由に取りに行くことができる。

発信側も受け手側もどちらの立場においても役職や立場、更にキャリアにおける責任や義務を気にすることなく、あくまで自分の意思に基づいた行動の元に自分という個人を成立させることができる。


とはいえあくまでもこういった横一列の関係性は自己責任や主体性というマインドがベースにあることが必要です。

それを踏まえた上で年齢やキャリア、役職など垣根を超えた中で形成されたコミュニティにおいて自由なコミュニケーションを取れるということ大きなメリットであると言えます。


ですがここで少し注意しなければいけないところもあると思うのも正直なところ。


最初の話に戻ってしまいますが、役職やポジションの関係がある会社や組織の場合、言わなければいけない役割の人と、聞き入れなければならない役割の人がいて双方にそれぞれの責任や義務が生じます。

言う側というのは何かあった時の責任を負わなければいけないということに加えて、それに対するリスクヘッジだって自分で用意しなければなりません。

それに対して聞く側というのは言われたことに対して受け入れる姿勢を持つということやソリューションとしてアクションを起こす義務が生じてくるはず。

この関係性の素晴らしいところは協働というビジョンを共有しつつお互いがお互いを尊重することで無責任を共有することがないということだと思います。

この部分に対してよくフリーランスになると人間関係の煩わしさがない=自由という話を聞くことがあります。


・・・


とうことは話の流れからいうとフリーランスになったら無責任を共有してもいいのでしょうか?


確かに、よくよく考えてみると伝える側として自由な発言や自由な選択ができるというのは少し間違えると自分勝手、いわゆる無責任を共有している状態を作ってしまっている可能性があります。

自分が言ったことで誰かの何かを変えてしまう、仮にそのつもりがなかったとしても数ある選択肢の中で自分の言葉や行動を選んでくれたのであればそれに付随する責任というのは1ミリもなくていいのか。

話の流れからするとそうであってもいいはずですが、それだと少し寂しい気もしませんか?


選ぶ側には権利があって聞き入れるのは自由ですし、発言する側も強制する権利や義務を持ち合わせていません。


とはいえせっかく選んでもらったのであれば受け入れてもらえたことに対して何か責任を感じたいですし、選んだ側も選んだ責任を相手に転嫁するのでは無く自分に課す義務があってもいいはず。


語弊がないように伝えたいのですが、発信した側の責任がまるまる「責任」になってしまっては、せっかく協働を共有しない上で成り立つ自由な言葉や行動のキャッチボールの弊害になってしまいます。

それに対し選ぶ側の責任を自己責任として義務と感じすぎることは活動の自由度を下げてしまうようで勿体無いと思います。


⬛︎協働を共有しないためには無責任も共有しない

フリーランスにおけるいい意味でのメリットは協働を共有しないことで生まれる自由度だと思います。

ただしこれをメリットにしていくためには無責任を共有しないことです。

そのためにはまず、伝える・アクションを起こすのであれば誰かに影響を与えるかもしれない、誰かが自分の価値観を選んでくれるかもしれないという責任を常に感じることだと思います。

そしてキャッチする側も自分で選んだモノやコトに対して誰かに責任を転嫁することなく自分の中でしっかり自己責任として落とし込める余裕を持つこと。


自由を自由と感じるためには責任・無責任には絶妙なバランスが必要だと思います。


僕が考えるフリーランスが自由であるための方法は、常いかなる時も、受け手・聞き手関係なく無責任は共有しないということです。

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