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何のために私たちは生きているのか

何のために私たちは生きているのだろうか?


子孫を残すため、幸せになるため…
まぁ、この問いをしたときに返ってくる答えはこんなものだろう。ふんふん、なるほどパッと見納得はできそうだ…。
だが、ちょっと待てよ、それって答えになってなくないか?
それをクリアしたら生きなくてもいいのか?子孫を残して(種を存続させて)何になる?なんのために子孫を残す?また、"幸せ"という抽象的概念に逃げていないか?

何のために生きているのか、そもそも、生命がどのように生まれたのか…。
現在言われているのは30~40億年前に生命体の根源であるアミノ酸が発生したであろうということで、そのメカニズムについては様々な説があり、言ってしまうと”よくわからんがたまたま生まれた”という事だ(専門ではないので言及はご容赦願いたい)。

なるほど、たまたま我々は生み出されたのか…。

では、なぜ地球は生命というもの生み出したのだろうか?
私は”炭素(有機物)を循環させたかった”と考えている。草は光合成をして成長し、動物に食べられ、動物は草を食べ成長し、死んだ後無機物として変換される。このように生命を物質循環装置として捉えるができる。

そうそう、我々なぞ単なる物質循環装置でしかない、装置の維持のために食事をし、装置の更新のために子孫を残す。これが我々の存在意義だろう、生きて死ぬ事に意味があり、地球は我々ひとりひとりの命に、大して重さを感じてはいない。

生まれて、息をして飯食ってクソして寝て死ぬ。それだけで地球からしたら十分に意義を全うしているのだ。

しかし、このロマンのない結論にはもう一つの解がある。
炭素の循環のための我々だが、その副産物的にあるモノもその循環装置に対応している。

それは”愛”だ。

親は子を愛し、もらう一方だった子はやがて他者への思いやりや配慮を覚え、愛することができるようになる(「私は親に愛されていない!」等の反論はやめてくれ、今そーゆー話をしているんじゃない)。


まさしく愛の循環といえるのではないであろうか、これはもう一つの生存意義と言えるのではないだろうか?

私たちは炭素の循環のために生み出され、愛の循環のために存在している。

とはいえ、愛の循環なんて副産物でしかなく、乱入クエストみたいなものだろう、暇がある奴がやりゃあいい、、、
ただまぁ、少し送受信にアンテナを立ててみると心は軽くなるかもしれない、無意味で無価値な人生だが、少しばかりくらいは意味があるんじゃないかな?と思うことができるかもしれない。

私は多くの愛を受け生きている、その分誰かに愛を贈ろう。。。

ただ最近は貰うことが多すぎて贈れるか不安だ(´Д`)ハァ…。

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