90秒で学ぶ!逆説の日本史3⃣古代言霊編(第二章)
今回は井沢元彦『逆説の日本史3⃣古代言霊編』(小学館文庫)
の第二章を90秒で紹介します。
第二章 桓武天皇と平安京編
奈良の大仏を捨てて、平安京に遷都した理由
莫大な国家予算をかけてまで作った平城京、そして奈良の大仏。
それを桓武天皇はあっさり捨て、都を遷しました。
通説では、その理由を桓武天皇が奈良の仏教勢力の影響を脱するためであるとしています。
しかし、井沢氏は通説に対して疑問を呈します。
井沢氏によると桓武天皇が平安京へ遷都した理由は主に三つあると言います。
第一に、王朝交替が起きたために遷都したということです。
「天智天皇編」で井沢氏は天武と天智は兄弟ではないと主張していますが、その証拠に天智系の桓武天皇が即位にあたって、郊祀という儀式を行っていることがあります。
郊祀とは、その王朝の初代の王と天帝を合わせて祀る儀式ですが、この時に桓武が祀ったのが、神武でも天武でもなく、父の光仁でした。
つまり、これは光仁から血統が変わり、王朝交替があったということです。
第二に、早良親王の怨霊を抑えるため平城京をシェルターにしたことです。
実は、都は平城京→長岡京→平安京の順で遷都しています。
当初、桓武天皇は長岡京に着工しましたが、そこで藤原種継暗殺事件が起きます。
この事件は遷都反対派の大伴一族が犯人ですが、それを裏で糸を引いていたのが早良親王だとされています。
そのため、早良親王は流罪となりました。その後、早良親王は無実を叫び自ら食を断ち護送中に憤死しました。
早良親王の死後、桓武天皇の周囲には不幸が相次ぎます。
夫人である藤原旅子、母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が次々と没しました。また皇太子である息子の安殿親王が病気がちになります。
それに加え、北の蝦夷にも敗れ、おまけに大洪水が長岡京を二度も襲いました。
そこで、桓武天皇は相次いで起きる不幸は早良の怨霊の仕業だと考え、平安京へと遷都を決めました。
第三に、桓武天皇が風水説を信じていた事が挙げられます。
平安京は風水説によって設計された都だと言われています。
実は、平安京は風水的に、四神相応であり、非常に縁起の良い場所でした。
だからこそ、縁起の良い場所を都にしました。
(ちなみに日本では風水のことを陰陽道と言います。)
ではなぜ、桓武天皇が風水を信じていたのか?
それは風水が当時の人にとって、最新の科学だったからです。
だからこそ、最新の科学に基づき、怨霊の祟りを防御するために平安京へと遷都したのです。
しかし、平安京に遷都したことで怨霊を封じることは出来ましたが、まだ桓武天皇は安泰ではありませんでした。
なぜなら、鬼門の方面とされている北東には蝦夷が勢力を拡大しつつあったからです。
そこで桓武天皇は坂上田村麻呂に蝦夷征伐を命じました。
つまり、桓武は天皇の安泰こそ、日本国の平和につながるという考えの下、
怨霊封じと平和を乱す敵を征伐しました。
そして以降400年続く平安京の基盤を作りました。
まとめ
今回は井沢元彦『逆説の日本史3⃣古代言霊編』(小学館文庫)
の第二章を90秒で紹介しました。
上で紹介した以外にも、井沢氏はこの章で桓武天皇が行った事業、日本人の宗教観について詳しく論じています。
ご興味があれば、読んでみてください。
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