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90秒で学ぶ!逆説の日本史2⃣古代怨霊編(第二章)

今回は井沢元彦「逆説の日本史2⃣古代怨霊編」(小学館文庫)
の第二章を90秒で紹介します。

(第二章)天智天皇編

天智天皇は暗殺された

都を近江大津宮に移したことで有名である天智天皇(中大兄皇子)は
弟である大海人皇子(天武天皇)に暗殺されたと井沢氏は述べています。

その根拠として第一に、『日本書紀』の内に欠陥があることです。
『日本書紀』の内容を簡潔にまとめると、
「天智天皇は病死した。天智は生前、大海人皇子に皇位を継承してほしいと頼んだが、大海人皇子は出家するために断った」という旨の内容が書かれています。

その後、大海人皇子は天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)との争い(壬申の乱)で勝利し、天武天皇になります。

しかし、日本書紀の編纂から約四百年後に皇円によって書かれた『扶桑略記』には『日本書紀』とは全く違う内容が書かれています。

『扶桑略記』の内容を簡潔にまとめると、
「天智天皇は馬に乗って山科まで遠出したが、その後行方不明になった。山科には天智天皇の死体も消えており、沓だけが落ちていたので、そこを天智天皇陵とし、大友皇子が即位した」と言うことが書かれています。

つまり『扶桑略記』の内容から言えることは、天智天皇は病死ではないということです。また状況から考察するに、暗殺であるということです。

『日本書紀』の内容が絶対に正しいという姿勢は、歴史三大欠陥の内の一つである史料至上主義です。
史料至上主義は戦時中の歴史教科書、発表(当時の権力者にとって都合の良い事のみ)をすべて鵜呑みにしているのと同じことです。

それを踏まえ考察すると、
『日本書紀』を編纂したのは、舎人親王(天武天皇の息子)です。
常識的に考えて、天武にとって都合の悪いことは書きません。天武にとって不都合な事とは天智天皇を暗殺したということです。

これとは対照的に『扶桑略記』を書いた皇円は天台宗の高僧です。
実は、天智天皇の孫が創建した三井寺は、天台宗の総本山の一つです。
つまり皇円は天台宗の中でも身分が高い教養人であり、『日本書記』には書けない天智天皇ファミリーの情報も持っているということです。
そんな人物が書いたのが『扶桑略記』なのです。だからこそ事実が書かれていると言えます。

また、『万葉集』の一四八番の歌にも「天智天皇の霊魂が山科を彷徨っている」という内容のものがあります。

要するに、天智は病死ではなく暗殺されたと言えます。
では天智は誰に暗殺されたのかと言うと、天武天皇です。

その根拠として天智・天武天皇は兄弟ではないことが挙げられます。
実は天武天皇の没年齢は全くわかっていません。
しかしこれは天武天皇の年齢が故意に書き落されているためです。

実は鎌倉時代の『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』には没年齢が六五歳と記されています。
しかし、これが正しいとすれば弟の天武の方が兄の天智より四歳年上になってしまいます。

では天武の方が年上なのであれば、なぜ天智よりも天武が先に天皇に即位しなかったのでしょうか?

これは天智天皇と天武天皇が兄弟ではなかったからです。
要するに、天武は天智の正当な後継者ではありませんでした。
だからこそ天武の年齢が『日本書記』には意図的に書き落されています。

まとめると、天武は天智の皇位継承は正統ではなかったので、暗殺した。
そして『日本書紀』には、天武の年齢をあえて書かなかったということです。

まとめ

今回は井沢元彦「逆説の日本史2⃣古代怨霊編」(小学館文庫)
の第二章を90秒で紹介しました。

また井沢氏はこの章で、「なぜ天武天皇は天智天皇を暗殺したのか?」その背景には朝鮮半島との関係があったこと、
そして「天智と天武の諡号から見えてくる関係」について考察しています。

目から鱗が落ちるほどの衝撃があるのでぜひ「逆説の日本史2⃣古代怨霊編」(小学館文庫)を読んでみてください。



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