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Re:永遠の反抗期

こんにちは。リョーガです。

パリに行った際にこんなツイートをしました。

「大人びている」とか「年上に見える」「98年生まれは嘘でしょ」「人生何周目?」とよく言われるので、なんでだろうなと6時間電車に揺られている間考えていました。決して言われることが嫌な訳ではなく、普段からよくそういう細かい事について考えまくる性格なだけです。気にしないでください。

今回の話を更に詳細にnoteに書くべきか、書かずに今後も仲良くなった人だけに話していくべきかは相当悩んでいましたが、(今でも書きつつ悩んでいる)自分という人間をもっと知ってもらうというnoteの目的には合っていること、自分がこんな生活をしているエピソードはまだまだこれだけじゃないぞ!そんなエピソード達を引き出したかったら飲みに行きましょう!という考えも込めて今回はつらつらと書きたいと思います。

書きながら気づいたのですが、実は同じタイトルで2ヶ月前にも同じ記事を書いています。その頃よりは進化したライティング力と語彙力、人に話すことで整理された感情と記憶をお楽しみください。(当該記事削除済)


高校1年の春


スイスの高校に留学して8ヶ月。同室の先輩とどうしてもソリが合わず、春休みの1週間クロアチアのドブロブニクに行く予定だったものを無理を言って1週間の帰国に変更してもらった。たった1週間だけでも、自分にとってはありがたい期間でした。
男子寮の悪い部分を受け継いだ伝統に耐えることができなかったのが本音です。1学年上の先輩方はその伝統をなくしていこうというスタンスの方々だったので、僕らの代も同様に無くす方向で動いてはいました。ただ1年目の、何もアクションを起こす力がない時の精神的・肉体的ダメージは大きかったです。

ウキウキで日本に帰国した夜、両親に羽田空港に迎えに来てもらい、車に乗り込む。もうすぐ川崎だ、楽しみだ、何をしようかなと考えていた時に、ふと父親からこう言われました。

「明日から沼津な」


沼津は僕の生まれた土地。じいちゃんっ子だった僕は年に3〜4回必ず帰省をしてはボクの夏休み4のような海と山の集落で遊んでいました。言っちゃうとラブライブ!サンシャイン!!のモロ聖地。徒歩3分でAquorsとユニット名が決まった砂浜があるし、徒歩5分で伊豆・三津シーパラダイスがある。自転車3分で淡島マリンパークもある。いつ行っても楽しい場所です。

そんな沼津になぜ明日から?と聞くと、
「おじいちゃんがガンでさ。危篤なんだ。もうやばい。」

実はそこから次の日の朝までは記憶が明確ではありません。というのも、怒り散らしていたから。なんで言ってくれなかったのか、疎外感を感じるって事は考えなかったのか一

疲れは一瞬に吹き飛び、全て怒りになりました。
いつの間にか家族全体(叔父やいとこ、はとこまでいる)LINEグループが出来ているのに、呼ばれることも無く話が進んでいたり、呼ぶよと言われ、参加したら若いからという理由だけで他の人に蹴られたり。
家族との細かなすれ違い1つ1つが大きな怒りの燃料となっていました。

ガンだと発覚したのは2月初旬。言われてから思い返してみると、1月に帰省した時に膵臓ガンの症状でよくある黄疸(胆汁の通り道が塞がれ、肌が黄色くなる現象)のような肌の黄色さはあったなと考えました。
でも末期のガンと診断されてから1ヶ月半、入院してから既に半月経っていたタイミングで初めて知らされた15歳の高校生は、ただ怒ることでしか自分の感情を吐き出せませんでした。

1週間の代打

僕の家系は昔から大工。祖父と三男(叔父)が家を作り(祖父は設計もする)、次男は塗装、父親の長男は設計オンリー。祖父の代役としてリフォーム現場に連れていかれ、壁や天井をひたすらに壊す1週間を過ごしました。
朝6時に起き、7時に現場へ行き、16時に仕事を終え病院へ行く。1週間、時差ボケなんか吹っ飛ばす勢いで規則正しい大工生活をしました。

高校野球が好きだった祖父。病室に行くと常に第4か第3試合の終わり際だったセンバツ高校野球が流れていました。
1時間ほど、同じ病院で働く叔母の勤務終了まで同じ病室で過ごす時間が今思えば心地よかったです。
静岡に戻った時には既に意識も朦朧としていたので、何か会話をした訳ではなかったのですが、それでも「また来るね」という言葉に帰ってくる細い返事が辛く、明日も病室に行く気持ちにさせてくれました。

多分、待っててくれた

祖父は僕がスイスに帰国する日の明朝に亡くなりました。出発3時間前くらい。
羽田に向かうために起きた時には、リビングの机に葬儀の知らせが書かれたFAXが置かれていました。

「きっと、スイスから帰国するのを待っててくれたんだな」

そう思いました。というのも、僕が帰国する前に1度山場と言われる程危うかった日があったらしく、それを乗り越え、僕が帰国してからは比較的穏やかな状態が続いていたという話を聞いたからです。

帰国はとりあえず1週間後に変更。高校には改めて説明するとして、再び静岡へ向かいました。

今思えば、日本にいる間は不思議と1度も泣いていなかったんですよね。祖父の死を経験してから初めて泣いたのはスイスに戻ってからでした。

葬儀で起こった家族とのいざこざ

通夜の後、寝ずの番と言われる風習があります。

寝ずの番とは、お通夜の後に遺族がご遺体を夜通し見守ることをいいます。お通夜の翌日に葬儀や告別式が行われるのが多く、故人と別れる前の最後の時間としての意味合いがあります。寝ずの番では、線香やろうそくの火を灯し続けるように決まっていて、これによって悪霊が故人に取りつかないようにし、安心して故人が極楽浄土に行けるようにします。

通夜の寝ずの番とは?過ごし方と線香のマナーについてhttps://www.koekisha.co.jp/chiebukuro/night-watch/

本来は遺族が交代で行うこの風習、1人でやり切りました。祖母はそれまでの介護で疲労しており、他の家族も酒を飲んでいた影響で起きていることができていなかった為です。

通常長く太い線香を使うのですが、当時あったのは短く細い通常用の線香のみ。30分ほどで燃え尽きてしまうため、ほぼ寝ずに火と煙を絶やすことなく葬儀の朝を迎えました。

冷静な笑顔、でも目が笑っていなかった

葬儀でもストレスが溜まっていく一方。唯一泣いていなかったが為に大人は最適だと思ったのでしょう、スピーチや親族の出迎えなど、人前に立つことをとにかくやらせようとしていました。すること自体は全然構わなかったのですが、今まで疎外しておいて何を今更、という気持ちが一番大きかったです。
そんな中親族控室に入ってきたのが、遠い遠い親戚の叔母様3人組。おそらくその時が自分の記憶がある状態で初めて会った機会だったのですが、その時に言われたのが「リョーガ君も大変ねぇ。まだ若いのに一家の長男として色々と。」
という一言でした。
今考えてみれば労いの言葉だったのだと思うのですが、ほぼ徹夜、やる事も多く、近い年代の親戚が近くにいないため感情を吐き出すことも整理することもできなかった僕は皮肉を言われているようにしか受け止められませんでした。

僕は確かに一家の長男。長男の祖父から生まれた長男の父の息子。古い風習のある沼津のイチ集落では、長男が家を継ぎ墓を守る(維持する)なんて慣習が残っていたりします。
高校生の自分に、まだ父がいるのにそれを言うか?アンタらは何にも知らずに生きてきているのに。そんな怒りの感情が真っ先に湧き、言い放ったのが
「長男なのは運命なので変えられません。それに関しての覚悟はこの一週間だけでも散々言われ続けてとっくにできています。余計な心配するくらいなら遺すもん遺してさっさと逝ってください。
という言葉だった。それも屈託のない笑顔で。
声を荒げるでもなく、暴力をふるうでもなく、ただ笑顔でそう言い放った。らしいです。怒りで記憶が飛んでいます。

そのシーンでバッタリと出くわした叔母曰く、「アンタを本気でキレさせたらこうなるんだって怖くなった」と後々に言われたほどでした。

当然ですが、当の3人たちはだいぶショックを受けたようで後に散々言っていたようですが、特に気にすることはありませんでした。それよりもそれ以降、葬儀開始直前までただ黙々と控室の壁を殴っていて(後にも先にも物に対して怒りを発散させたのはこれっきり)血が出ていた拳が痛かった記憶はあります。

「大人びている」理由

こんな経験を自分はしたんだぜ!へへ!なんて言いたいわけではなく、まあおそらくこの経験や、この経験の影響で両親や親戚と気まずい関係にあるのが自分が年相応に見られない理由なのかなと考えました。少し前に知り合いにこの話をした時に「普段のリョーガ君からは考えられないんだけど……」と言われました。それくらい高校の頃と今とではギャップがあったのかなと思います。

セルフコーチングで感じた「自分」

話は変わりまして、ノマドニア13期ではコーチング講座がありました。自分自身、コーチングやカウンセリング分野には興味があったので、講座を聞く形で参加。
「自分のマインドブロックを崩す」過程で出たメモを載せたいと思います。

感情の深掘り

自分は誰かのサポート(メンタル的にも実務的にも)をすることが好き、それで感謝されたり金銭が発生するなら最高。
自己表現は好きだけど発信が苦手なので、発信を得意とする人のサポートをするのが自分も周りも幸せになるんじゃないか

その上で自分がどうしたいか

今後ノマドニア運営として人をサポートをしていく中で、金銭の発生する仕事としてではなくても、周囲の感情を吐き出せる場所、人間として価値提供できればいい。
自分なりのマインドブロック解除として、自分は自分の評価をとにかく低くしている。だからこそ、「周りのすごい人達」に対して自分ができることは大体する(シェアハウスとして家提供したり、話しにくそうな内容の話を聞いたり)し、自分もそれを面倒、苦と思わずにできている。
自己評価、自己肯定感が低いけど「低いなり」に自信を持って営業とかできるよね、それが自分だよねと割り切ったので低いからできない、というマインドブロックは解除した。
(Respect othersの精神)

自己結論を書いてしまう形で申し訳ないが、自分は自分の評価をとにかく低くしています。周囲は一旦忘れて、自分のみ。これは先ほど長々と書いていた家族とのいざこざからくる後悔や、それによって生まれた孤独感から来るものが理由。

ただ、自己肯定感を低くすることで自分が普段からしていること全てに理由がつく。「自己肯定感が低いから」「周囲のすごい人達が」〇〇するためにサポートをする。のように。自分はそれを苦とは思わないし、相手に求められ、認められるなら大体のことはしますよと。
忙しそうとか関係なしに、呼んでくれれば大体行くんですよ。ミーティングとか相手方に迷惑がかかる予定がなければ仕事してても100%行きますし、予定空けます。だから声かけてください」と言うようにしています。「忙しそう」というマインドブロックを崩すのが目的ですが、それと別に自分が人と関わるために、自分を求め、自分の価値を認めてくれる人が自分に繋がるように宣伝する。二つの目的や意図が合致しているので、最近はよく伝えています。

だからこそパリで会った時、少し変な感じだった

そんな複雑な感情を抱える家族(父親)と、パリで待ち合わせるという不思議なイベントがありました。ノマド、というかジョージアで暮らすことを決めたからこそ起こったイベントでしたが、海外で父と会う、ということは自分の中では何か踏ん切りがついた一歩目だったのかもしれません。

おそらく、一生高校生の頃のことを心から許せる日は来ないでしょう。ただ、それでも許す、許さないとは別でしっかりと割り切れる日がいつかくれば、その時こそ反抗期の終わりなのかなと思います。


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