掌編小説「X市」
会社から有給休暇を取って内藤売瑠(うる)は仕事を少し休んで旅行をしていた。旅行の当初の目的を終えることができたが、帰りの新幹線の切符は翌日の夕方に買っていたので、さて、それまでにどこに行こうかと考えた結果、旅行ガイドに載っていた動物園が、泊まっているホテルからそう遠くはないので行ってみることにした。地下鉄で何駅か過ぎると、目的の動物園は駅から歩いて5分以内のところに入口がある。事前にオンラインで入場券を買うこともできるが、前払いすることが売瑠は嫌だったので、窓口に並んでしばらくして入場券を買うことができた。
入場して売瑠がまず驚いたのが、これまで行った動物園には園内の案内図がパンフレットで置いてあったのだが、ここの動物園にはパンフレットがないことだった。どちらから回ろうかと売瑠は考えていたが、お目当てにしていたオオアリクイをまず先に見ようと思ってはいた。この動物園の目玉としては、毒を持つコモドドラゴンが、先月インドネシアから日本の動物園に唯一やってきたことで、園内のポスターにコモドドラゴンがよく掲示されていた。売瑠もコモドドラゴンのいる場所を示す看板をよく見かけたので、まずは見てみようと行ってみたのだが、年齢として幼稚園児かと思われる子ども達が走りながら、コモドドラゴンのことで話をしているのが聞こえて随分と違和感を感じずにはいられなかった。
違和感の理由のひとつは、なぜか子どもたちには沢山の動物たちの名前を記憶させられるという、動物と触れ合うのを大事と説いているのかはわからないが、大人が忘れている生き物の名前を子どもたちはよく知っているという事実。もうひとつは、人生という生きている間の時間があるとして、そこで他の生き物や存在を、売瑠のように中年男性になった頃に初めて遭遇する者もいれば、この子どもたちのようにまだ学校にも行ってないで発見する人もいるということであった。コモドドラゴンを実際に見ると、ガラスの向こうにコモドドラゴンはじっと座り横を向いていた。売瑠は記念に携帯電話を取り出して、そのコモドドラゴンの横顔を写真で撮った。当たり前なことではあるが、一時的でもここがこのコモドドラゴンにとっては棲家なのである。売瑠がこの後、ご飯を食べに定食屋に入り、駅の土産屋で土産を買い、新幹線で自分の住まいや帰り、翌朝職場に向かい、仕事での訪問先の施設に訪問しても、きっとこのコモドドラゴンはずっとここで息をしているのだろう。売瑠が、自分の行動を移して次々に移動をしないとならないのは、そうしないと売瑠の生活に支障が出る訳であるが、例えば売瑠が職場のデスクで仕事をしているその瞬間、売瑠の視神経がコモドドラゴンにあるとするなら、その時も売瑠が見ている視界はガラスの向こうのコモドドラゴンを見ているお客さんか、ただ閉じられている檻の中のこの空間を見ていることになるのだ。
「内藤くん」
「はい」
「この提出してくれたメールのことなんだが、ここの金額は誤りでないかね」
「え、どれですか?」
「これだよ、ここの右端の5行目のところ」
「はい?」
「はいって、聞いているのかね、私の話を」
「ええ。聞こえてはいます。ただ、見えないのです」
「見えないって、目が悪いのか」
「いえ、視界は良好です。ですが、私は、今檻の中をじっと見ているのです」
「檻だと?」
「ええ。動物園のコモドドラゴンに私の目はくっついてしまって檻の中とガラスの向こうから見ているお客さんがよく見えるんです」
「なに?動物園だって。内藤くん、ふざけているのかね、君の目や意識はここにあるではないか」
「そう思っているのが自然だと思いますが、私達がこうしてデスクワークをしている間もコモドドラゴンはあの場所でずっと座っているのです。私にはこの目を自分に戻す方法がよくわからないのです、今朝も電車にはなんとか乗れたのですが、吊り革に掴まろうとしたら、誰かのイヤホンコードを引っ張ってしまったのです。やはり、この生活は不便なのです。どうして私達が自分の目を持ち歩きながら見ないとならないのかがよくわかったのですが、こうしているとコモドドラゴンもずっと確かに生きているということがよくわかりました。私は意識をまた自分に向けないと仕事の役に立てないでしょう」
「わかった。いや、私には理解できてはいないが、内藤くんが普通の人とは異なる特殊能力を持っているということがわかった。コモドドラゴンではなくて、内藤くんの身体に意識を向けなさい」
「ええ、わかりました。一度失礼します」
売瑠は職場の階段から手すりを頼りになんとか下の階の休憩室まで降りて、自動販売機に向かった。幸い音や声は、向こうではなくここから聞こえるので、会話をしたり、物音を聞き分けることは可能だった。120円の硬貨を探し、アイスコーヒーを買ったつもりでプルタブを開けて飲むと、その味はコーヒーではなくココアだった。ずっと檻の中を見ていても、アイスコーヒーとココアの違いがわかるものなのか、売瑠は感覚がそれぞれ独立していることを感じた。だったらこの目だけに向けて、目を新幹線に乗っけてしまえば、私の目は帰ってくるのではないか。売瑠は、自分が旅先から家まで帰った経緯を記憶を辿って忠実にイメージしていた。そして、とうとう売瑠の目は檻やガラスをすっと通り抜けて動物園の外へと帰ることができたのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?