頭の中だけにある傑作

頭の中だけにある傑作

ここ半年くらい、夜に銭湯に行くのが習慣の1つになった。ほぼ毎日、1時間くらい入浴している。この時間は、頭と、心と、身体を整えることができるとても重要な時間だ。

最近1つ気づいたことがある。それは、銭湯に入っている1時間の間、頭の中にある大量の情報が、途切れることなく出てくることだ。自分でもビックリするくらい、尋常じゃないくらいの量の情報が溢れ出す。初めは、その感覚がおかしくて、思わず吹き出してしまい、隣の人に変な目で見られた。笑

いったい僕は、日々とれだけの量の情報をインプットしているんだろう?

暇さえあればケータイを持ち、SNSの投稿を読む。何かの記事を読む。休日は本を読む。漫画を読む。映画を見る。勉強会や講演会などに足を運ぶ。そんな生活が、20歳を超えた頃から当たり前になった。もう8年間くらい、大体こんな感じだ。明らかに、インプット過多である。

だからこそ、銭湯のようなインプットが強制的に遮断される状況だと、飽和状態にあった情報がどんどん溢れてくるのだと思う。

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ここ数年のことを振り返ってみると、おそらく、時期によってインプットの目的が変化している。

最初の頃は、自分が知らない情報に触れることが好きだった。知っていることがどんどん増えていく感覚がとても刺激的で、のめり込んだのだと思う。

知ってることが増えてくると、今度は情報と情報をつなげることに魅力を感じるようになった。情報を組み合わせて、自分なりの考えを持てるのが嬉しかった。

そして最近は、そんな自分なりの考えを、答え合わせをするために、インプットをしているように思う。SNSの投稿でも、何かの記事でも、本でも勉強会でも、自分の考えと同じような考えのものを見ると安心する。自分がまだ言葉にできていない感覚を、言語化してくれているものに出会うと安心する。その安心感が心地よくて、インプットの世界に浸っている。

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でも最近、そんな生活に、ちょっと行き詰まりを感じている。インプットの世界に浸り、大して変わらない日常。大して成長していない自分に憤りも感じる。それだけでなく、多くの共感を得ている投稿や記事を読んで「それ、俺も数年前から考えてたし」とか、何かを成し遂げた人を見て「それ、俺でもできるし」と思うこともある。自分は何もアウトプットしてないくせに。何も行動してないくせに。

共感を呼ぶような投稿、記事は、少なくても誰かの労力によってアウトプットされたものだ。書き手が、自分の感覚を言語化し、読む人のことを想像し、手間ひまかけて世の中に出る。

何かを成し遂げた人は、自分の想いを発し、ヒト、モノ、カネを集め、1つのカタチにした人だ。壁にぶつかったことも、逃げ出したくなったこともあっただろうが、負けずにやり抜いた人だ。

「それ、俺も数年前から考えてたし」

「それ、俺でもできるし」

そう思っているだけで、何もしないのは、とっても楽だ。努力をする必要も、傷つく必要もないから。自分の未熟さに、人生に、絶望を感じる必要もないから。

頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな。
お前はずっと、その中から出られないんだよ。

朝井リョウの「何者」に出てくるセリフが、心に強く突き刺さる。僕の頭の中は、まだ世には出していない傑作品だらけだ。傑作品に囲まれた生活は居心地が良くてなかなか抜け出せない。本当は傑作ではない可能性を、認めなきゃいけない可能性があるから。

10点でも20点でもいいから、自分の中から出しなよ。
自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。

今年は、アウトプットと行動の1年に。過多になっているインプットの比率を下げ、アウトプットの比率を上げていきたい。新たにするインプットは、アウトプット前提で行いたい。すでにあるインプットは、もっと意味あるものにしていきたい。自分のために、誰かのために、世の中のために、活用していきたい。

noteもそのための手段のひとつ。1歩1歩、書き続ける。

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