見出し画像

謀りごとにはうってつけの殺人 [1/3]

あらすじ
 白郷大学情報工学府の院生である西條のもとに刑事の磯山が訪れる。近隣大学の学生が首を絞められ殺害されていたという。
 容疑者として西條と同じ研究室のふたりの名前が挙がる。ひとりは同期の田端、もうひとりが秘書のマリー。ふたりは被害者の死亡推定時刻に殺害現場にいた。西條は半ば脅されるカタチで捜査に協力を依頼される。研究を妨げる障害は取り除かなくてはならない。西條は早期に事件を解決させるため、依頼を受ける。しかし調べる限りどちらも怪しく決定的な証拠は見つからない。西條は磯山を呼び出して、その旨を正直に告げる。
 大切なふたり、どちらが殺人を犯したのか。やがて西條は真相にたどり着く。

本文

悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ

――ウィリアム・ジェームズ



 磯山は表情を二度変えた。まずは戸惑いに、そして穏やかに。磯山が手のひらで包む取っ手のないコーヒーカップ、温かさを直に感じてもらうために西條があえて選んだ品である。冬の寒さでかじかんだ手によく馴染んでいるようで、心底温まっている様子だった。西條の目論見通りの反応である。
「刑事さん、要件とはなんでしょう? 森瀬教授が明日には出張から帰ってきます。それまでに実験データをまとめないと」
「お時間は取らせませんので」
 磯山は言葉とは裏腹にゆっくりとコーヒーを啜った。カップを包む長い指、整えられた眉、艶やかな髪、身体にぴったりと合った細めのスーツはオーダーメードだろう。刑事という無骨なイメージとはかけ離れ、青年実業家と言われた方がしっくりとくる。磯山の隣では相棒然とした若い男性刑事が手帳を開き、ペンを遊ばせている。こちらは西條と同じくらいの年齢だろうか。
「それにしても……」
 磯山はぐるりと周囲に視線を這わせた。そして感嘆とも辟易とも取れそうな溜め息をひとつ吐く。森瀬研究室はいくつかの部屋に分かれており、ふたりの刑事を通したこの部屋は講師と院生のための居室であった。
「研究室なんて無秩序な方が落ち着くものですよ。整理整頓なんかする変人がいたら見てみたい」
 目線の先にあるホワイトボードには数時間前に西條と講師が議論したままの状態が残っている。乱雑で重なりあった文字は他人からすると解読できるものでもないだろう。むしろ西條自身も冷静になった今では読み取れない箇所も多い。
 議論の痕は隅にある落書きを避けて繰り広げられていた。深夜アニメに出てくる魔法少女のキャラクター、一か月ほど前に学部生が誇らしげに書き残していった。普段は居室に客を通すこともないため気にせずに放置している。本棚の上段には開封された芋焼酎のボトルが分厚い書籍の前を我が物顔で占領している。
 西條が所属する白郷大学は分野横断型研究、いわゆる学際領域研究に特化した大学として五年前に新設され、目覚ましい成果をあげている。優秀な教授陣を外部から招き――莫大な金が動いたとの専らの噂である――今なお研究規模は拡大し続けている。
 研究には費用がかさむ。産学連携とはよく言ったもので、多くの教授は企業に名前を貸す代わりに金を引き出し、研究費に充てていた。人手も必要で自然流入する院生や留学生だけではまかないきれない。教授たちは以前所属していた大学から一部の学生や講師を呼び寄せることも多くあった。
 昨年まで地方国立大学の学部生だった西條も、教授の森瀬が白郷大学に移る際に一緒にやってきた。形式上、院試として面接が行われたらしいが、その記憶は一切ない。
 ――国立大卒を捨ててまで実績のない私立大に進むなんてどうかしてる。
 前の大学で研究室の同期だった男は、送迎会の場でそう吹聴していたらしい。彼は森瀬に声を掛けられることはなく、大学院への進学にあたり別の研究室を選んだ。大学三年生までの授業で優ばかりをとっていた彼の主張を西條は理解出来なかった。やりたい研究を深めることが何よりも優先されるべきで、たとえ声が掛からなかったとしても、どうにかして森瀬についていくことが最適解だろう。
「おっ、懐かしい。息抜き用のゲーム……にしてはごちゃごちゃ線が伸びてるな」
 磯山の声で我に返る。西條の返事を待たずに磯山は腰をあげ、発見したゲーム機に向かって歩き出した。
「刑事さん、まだ話をうかがっていませんよ」
「まあまあ、いいじゃないか少しだけ。というか、これ大丈夫なのか? 電気が流れるとか?」
 割と自己中心的な性格なようで、早くも西條相手に口調が砕けている。
 大型のテレビディスプレイには二世代前のゲーム機が繋がれている。ただしそのゲームコントローラーは薄膜で覆われており、さらにその薄膜へは透明チューブが伸びている。チューブの先はタンクになっており、半透明のタンクを通して液体が揺れている様子が確認できる。
 磯山の不安げな表情ももっともで、明らかに通常のゲーム機ではない。ゲーム機とタンクは一台のノートPCに接続されている。
「安全です。痛みはありません」
 ゆったりとコーヒーを飲んでいた磯山の姿を思い返す。彼らを早く帰すのは無理なのかもしれない。ならば、と西條はゲーム機のスイッチをオンにする。解像度の低い歪んだ緑色の画面が現われ、徐々に安定した色味を取り戻していく。
「これは、テトリス?」
「みたいなものです。どうぞ」
 手渡されたコントローラーを磯山は指で軽く二回突く。もちろん電気など流れない。磯山がおそるおそる握りしめたことを確認すると、西條はPC側の操作でソフトを起動させた。
「ルールと操作はテトリスと同じですので。いきます」
 居室内にエンターキーの音が響き、ゲームが開始される。正方形を四つ組み合わせたもの――テトロミノという――が落ちていく。
「最初から速くないか?」
 正式なテトリスではゲーム開始時のテトロミノ落下速度は遅い。累積プレイ時間に伴って速度は段階的にあがっていく。しかし西條のテトリスもどきは仕様が異なり、落下速度をPC側から任意に決定できる。
 磯山が慣れるまではしばらくプレイ時間を取ったのち、磯山がテトロミノを溜めないぎりぎりの落下速度に微調整する。
「慣れたらこっちのもんだ。余裕、余裕」
「そうですか、では」
 西條はPCディスプレイに記された〈タンク〉というアイコンをクリックする。
「ん、今なにかした? 別に変らないようだけど……あれ?」
 なんとか消去できていたはずのテトロミノが徐々に積み上がる。
「えっ、なんで? お、まじか、ちょっと待って。ああ!」
 ディスプレイにゲームオーバーの文字が浮かぶ。磯山は頭を掻きながらコントローラーを西條に突きつけ、ノートPCを覗き込んだ。
「君がマウスをクリックしてから、ちょっとずつ難しくなった。速度をあげた? ほらここにスピードと書いてある」
 指された箇所を見て西條は首を横に振る。
「いえ、調整はしていません。間違いなく速度は一定でしたよ」
「同じ速度だった? じゃあ何で俺はゲームオーバーになった? 一回ミスしたせいで焦ったかな」
 想定通りの反応に西條は思わず笑みを浮かべる。
「反対なんです」
「反対?」
 磯山は眉をひそめる。
「手に汗握るという言葉をご存知でしょう? 刑事さんは『ミスをしたから焦ったのではなく、焦ったからミスをした』んです」
「いや、意味が分からない」
 西條はタンクを手のひらで二度打った。タンク内部の液体が揺れる。
「コントローラーに繋がっているこれ、実は中身はH2О、ただの水なんです。さっきの僕のクリックは、コントローラーを覆った薄膜に水を滲ませただけなんです」
「念の為にもう一度言っとくけど、意味が分からないからな」
 磯山は眉根を寄せて、西條に詰め寄った。
「ちょっと磯山さん、落ち着いてください」
 若い刑事は磯山をなだめすかし、西條に顔を向ける。
「手に汗握るって、イコール焦ることですよね? 焦ると握りしめた手から汗が出る」
 西條は首肯する。
「その通りです。今回はそれを応用してみました。つまり、先ほどの言葉を言い換えると『ミスをして汗をかいたのではなく、汗をかいたから焦った』んです。手のひらが濡れて汗をかいたと身体が思い込んだせいで、焦る気持ちが想起され、ミスが誘発された」
 磯山は両手を頭上にかざした。うっすらと濡れた手がぬめぬめと光を反射していた。二枚目風の刑事は頓狂な声をあげ、慌ててスーツの太もも部分で手を拭った。西條の失笑に磯山は睨み返す。
「短期的な感情の動きのことを情動といいます。情動によって生体反応や判断が引き起こされると一般的には考えられていますが、実際には未解明な点も多くあります。今の刑事さんみたいに疑似的な生体反応を起こしてやれば情動が発生することもある。提唱した研究者ふたりの名前をとって〈ジェームズ・ランゲ説〉といいます」
「体感すると確かに納得させられる。君はこんなことを研究してるの?」
「このゲーム自体は暇つぶしに作ったものですが、似たようなアイデアで研究を進めています。森瀬教授の専門が情動研究、長谷部准教授の専門が機械設計だったことから、森瀬研の学生のほとんどがテクノロジーを介した情動研究をしていますね」
 ロボットアームやヘッドマウントディスプレイ、3Dプロジェクタなどの検証用デバイスがそこかしこに転がっている。より原始的な刺激である振動や温度を与えたり、映像を用いたりする学生もいる。
 刑事ふたりは物珍しそうな表情を浮かべ、感嘆の溜め息を吐いた。西條は気をよくして言葉を続ける。
「興味深い事例は多々あって、例えばイェール大学の研究チームの報告によると、ホットコーヒーを手に持つと他人を心が温かい人物だと判断し、反対にアイスコーヒーを持った場合は冷たい人物だと判断する可能性を示しています。おふたりがここに来た時、僕はわざと取っ手のないカップでホットコーヒーを出しました」
 西條はふたりを促して先ほどまで居た応接セットに戻った。そしてすでに飲み干して空になったカップを手に取ると両手で包み込んで見せた。
「取っ手を持つと温度を感じにくいですからね。温かかったでしょう?」
 磯山の穏やかな表情を思い返す。
「刑事さんが早い段階で僕相手に打ち解けたのも、温かさを介して僕を温かい人、心の許せる人だと無自覚で判断してしまったせいかもしれません」
「まさか、流石にそれはない」
「刑事さん一名の結果なので、科学的に正しいとはいえませんね。でもさっきのテトリスもどきも面白いように反応してました。刑事さんは肌からの外部刺激情報に判断を促されやすいかもしれませんよ?」
「まじか、怖すぎる」
 磯山は拭いたばかりの両手をじっと見つめる。
「ここは居室ですからあまり試せるものがありません。興味があるなら実験室に案内しましょうか?」
 西條は腰を浮かしかけたが、突然突き出された磯山の右手にぴたりと動きを止めた。
「いや、もう充分。案内はしなくていいから教えてくれないか? 田端智のことを」




 突然でてきた名前に西條は当惑した。つい気をよくして研究室訪問のように振舞った自分を戒める。刑事がただ大学を散策することなど当然ない。
「田端、ですか?」
「そう。残念ながら今日は居ないようだけど」
 田端は西條と同じ修士二年の院生で、午前中は研究室に顔を出していた。森瀬の不在をよいことに、マッチングアプリで知り合った女子大生とこれからデートだとか適当な理由をつけて昼過ぎに帰っていった。
 研究者を志す者が総じて生真面目な努力家で、実験を積み重ね、論文を読み漁っているとは限らない。田端は西條とは違った感性を持ち、それでいて優秀な研究者として期待されている。
「なぜ、田端のことを?」
「警察にスカウトしたいから、って言っても無理か。田端だけじゃない。秘書の雨宮のことも教えて欲しい」
 ふたたびの衝撃に閉口せざるを得なかった。言葉が出ない代わりに懸命に思考を巡らせる。やがてある可能性に思い至った。刑事たちはあのことを調査しているのではないだろうか。
「雨宮さんも今日は居ません。森瀬教授の出張に同行しているんです。戻りも遅いので大学には来ないかと」
「そう」
 磯山の表情をうかがう。不在を知った上でここに来た、という含みを持った返事だった。思い至った考えをぶつけてみる。
「緑女の学生が亡くなった件でしょうか?」
 今朝がた、緑山女子大学に知り合いがいるという噂好きの学部生から聞かされた。西條の問いに磯山は目を丸くする。
「もう広まっているのか。ああ、俺はその件を追っている。単刀直入にいうと二人には芹崎玲殺害の疑いが掛かっている」
 機密情報だろう。あっさりと漏らす磯山の真意を考える。
 緑山女子大学心理学部三年、芹崎玲の死体が見つかったのは今日午前十時のことであった。死因は窒息死、首には水平方向に細い紐状のもので絞められた跡と垂直方向に芹崎本人が付けたとみられる無数のひっかき傷があった。
「ポリ塩化ビニル?」
「ああ、芹崎の爪の隙間には本人の肉片の他に削られたポリ塩化ビニルの破片が詰まっていたと報告を受けている。詳細な分析結果が出るには時間がかかるようだが、色は黒、軟質性のものだ」
 ポリ塩化ビニルは可塑剤の量で硬さが変化する。軟質性となると電源コードなどの被膜に使われることが多い。つまり絞殺する凶器としてコード類が用いられた可能性は高い。
「ただし凶器はまだ見つかっていない」
 犯人が持ち去ったのだろうか?
 死体の発見現場は髙山会館の二階から三階に向かう階段の踊り場、角に沿うように身体を直角に折りたたみ倒れていた。事務員の女性が館内を見回る際に発見した。死亡推定時刻は二日前の土曜日午後七時から九時、日曜日が休館日だったため発見が一日遅れた。
 磯山が顎をしゃくる。若い刑事が西條に写真をみせる。写真で見る芹崎は眉の高さで切りそろえられた前髪と三白眼が印象的な女性であった。全身を写したものもあり、腰まで落とした黒髪は重く艶がかっている。
 殺害現場が髙山会館であったことに驚きを隠せなかった。髙山会館は白郷大学が所有する施設で、元はテム社の研修施設であった。髙山はテム社の旧社名、髙山電機工業に由来する。白郷大学と繋がりのある企業の中でも格別にテム社との結びつきは強い。森瀬研においても技術提供や共同研究、社会人博士の受け入れを行っている。髙山会館は白郷大学が設立されて間もない時期にテム社から寄付されている。
 外観や内部設備などはずいぶんと古いが、一方で立地は駅から徒歩十分圏内と悪くない。白郷大学の職員や学生がひとりいれば他所属の人も利用できるとあって利用頻度もそれなりにある。
 西條も他大学や企業の研究者とのちょっとした打ち合わせ、学外の被験者を使った実験などは髙山会館で行うことも多い。先日もテム基盤研究所との打ち合わせを行ったばかりだ。インカレサークルなども利用するので、同じ市内にある緑山女子大学の学生の姿は時折見かける。同じ大学生といっても白郷と緑女では印象が明らかに異なっていて興味深い。
「芹崎が白郷のインカレサークルに所属していたか確認しましたか?」
「彼女が白郷大学の何らかの組織に属していた事実は見つかっていない」
 直接属していなくても友人らが所属していて連れて来られた可能性もある。西條がそう告げると磯山は大げさに手を横に振った。
「そもそも芹崎は緑山女子大学の中にもほとんど友人らしい友人がいないようだ。大人しいともちょっと違って、浮いているといった方が正しいかな」
 既に芹崎の周辺調査は進んでいるようだ。
「同じ学科の学生にあたってみたんだが、芹沢は自身の大学の学生を見下しているような言動をしていたようだ。何も考えずに日々を消費している緑女生というブランドそのものに嫌悪感を抱いていた、みたいな発言をしていたらしい」
「なにも考えずって、ほとんどの学生がそうでしょう」
「君は違うみたいだね」
 帰属意識が怠惰につながることは十分に理解できる。西條も大学に入学したての時は少なからずそのような感覚を持っていた。しかし大学を移り、帰属意識は薄れた。現在のアイデンティティは組織ではなく自己に寄っている。
「自分はまわりの緑女生とは違うっていう優越感に浸ってたみたいだな。何者でもないのにくだらないな」
 磯山はカップをくっと傾けて冷めたコーヒーを飲み干す。ソーサーとカップが不協和音を響かせる。そのような考えに至ること自体、芹沢がその価値観ラベルに依存している証拠に他ならない。
「とりあえず、芹崎の交友関係は無視してよさそうだ。で、髙山会館なんだが二日前の利用記録にはサークルや目ぼしい団体が利用した形跡はなかった。一方で白郷大学の教授や学生の個人利用は確認できた」
 西條は唾を飲む。いつの間にか口内は乾いていたようで、粘り気のある唾が喉に張り付いた。咳ばらいをひとつ入れる。
「その個人利用に田端とマリー、さんの名前が?」
「マリー?」
「ええと、すみません。雨宮さんの洗礼名です。カトリック信者でマリア雨宮遥、研究室ではみんなマリーさんと呼んでいます」
「へえ、知らなかった。渾名で呼ぶだなんて随分親しいんだな」
 磯山は白い歯をこぼす。テーブルの上の芹崎の写真を掴み取ると、同じ場所へ新しい写真を放る。
「田端智、二十四歳、男性。白郷大学大学院情報工学府博士前期課程二年、森瀬研究室所属。長ったらしいな。要は君の同期だ。元は瀬田大学の理工学部出身で大学院から白郷大学にやってきた」
 写真に視線を落とす。研究発表のポスターの横でスーツ姿の田端がはにかんでいた。短髪で爽やかな印象は今とさほど変わらないが、今よりもあどけなく髪も少し茶色がかっている。瀬田大学時代のものだろう。西條も学部時代、学会で田端を見かけたことがある。際立った器量のよさか、多くの人を引き寄せていた。著名な教授相手にも物怖じせずに討論を重ねていた。
 ――面白い奴がいた。あいつ、僕の研究室に来ないかな。
 森瀬が学会帰りに西條に告げたことがある。そのためか白郷の大学院に入って田端の姿を認めたとき、驚きよりも納得が大きかった。
「そしてもうひとり」
 田端の写真の上に、新しい写真がはらりと落とされる。三人の女性が並んだ写真、その真ん中にマリーがいる。両サイドは森瀬研の四年生だ。ゼミ旅行の時に西條が撮った写真で、研究室のホームページにも掲載している。
「雨宮遥、二十九歳、女性。森瀬研究室所属の秘書。君と同じ『ハルカ』って名前だ。君の方は悠久の方の字だけど。雨宮は元々テム社の秘書課に所属していた。優秀で評判だった。転職したときには驚く社員も多かったとか」
 白郷に移るや否や、以前の国立大の頃よりも森瀬は忙しく働いていた。大学の方針でテム社をはじめとする対企業の仕事が増えたからだった。
 ――残念ながらとうとう僕もプレイヤーを続けるわけにはいかなくなったよ。今の仕事はお金を取ってきて西條君や田端君に論文を書いてもらうことだね。修士卒業までに一本、博士課程になったら四年生を似たテーマでつけるからどんどん研究を進めてくれ。テムからの博士の受け入れもあるし、忙しくなるなあ。
 テム社も森瀬の愚痴を聞いていたのだろう。白郷に移って半年も経たないうちにマリーが秘書としてやってきた。大企業が人身御供のようなことをするのかと衝撃を受けたが、マリー本人はよくあることだと気にしていなかった。むしろ森瀬研は居心地がよくて、転職して正解だったと最近ではことあるごとに言っている。
 紹介された日のことは鮮明に覚えている。オリーブ色のボブはしっとりと艶めいていて、わずかにナッツ系の甘い香りがした。お気に入りのヘアミルクらしく、何本もストックしていることを今ではよく知っている。白い頬に散った薄茶のそばかすがなんとも不思議な魅力を醸しだしていた。そのことを伝えたことがある。
 ――母がクォーターでね。つまりわたしには八分の一ロシアの血が流れている。肌の色とそばかすはおばあちゃん譲りだね。こう見えてちっちゃい頃は悩んでた。けど今はとても気に入ってる。
 そのときマリーに撫でまわされて乱雑になった髪を思い出し、西條は髪をひと撫でする。
「記録によると田端智の入館時刻は午後六時四十三分で、退館時刻が七時三十五分。三階のC会議室を利用している。一方、雨宮遥は入館が午後八時二分、退館は午後八時四十一分で利用場所は三階B会議室。ふたりとも芹崎玲の死亡推定時刻の七時から九時にかかっている」
 ふたりのうちのどちらかが犯人である、磯山が写真に落とす冷たい視線から警察がそう考えて捜査を進めていることがうかがえた。
「他の利用者について聞いてもいいですか」
「もちろん」
 磯山は快諾する。西條にここまで情報を開示する理由はなぜか、おおよその考えは固まった。どう振る舞うのかはともかく、田端とマリーが疑われている。引き出せるだけ情報を得たい。
「工学部の岡本教授が午後五時から六時半まで一階応接室、理学部の学生三人が一階資料室を午後三時から七時まで利用していた。ちなみに彼らに殺害は不可能だと考えている。教授は化学メーカーの開発部長と常に一緒にいたし、学生らは講義で発表するグループ課題をやっていてひとり長時間席を外すといったことはなかった」
「部屋を全くでなかったんですか?」
「いや、トイレに立ったり飲み物を買いにいったりしたことは認めている。しかしトイレも自動販売機も資料室の横にあって殺害が可能なほど長時間離れた者はいなかった。いくつかの確認を行ったが証言通りの行動をしていたことに間違いはない。共謀しているといったこともないだろう」
 髙山会館を一度でも利用したことがある者なら二回目以降は一階の部屋を利用する。理由は単純でエレベーターがないため、三階には階段をのぼる羽目になるのだ。利用者が少ない三階であれば、誰も近づかなかった可能性も高い。死体が見つかったのはふたつある階段のうち、奥側の階段でなおさら人は通らない。
 ひとつ疑問が生じる。初めての利用でもないのになぜ田端もマリーも三階を利用したのだろうか?
「聞くまでもないかもしれませんが、芹崎は館内で目撃されていないんですよね?」
 磯山は首を縦に振る。
 髙山会館の出入り口はステンレス製の枠に強化ガラスがはめ込まれた重い扉で、扉は内側にも外側にも開く仕様となっている。扉を抜けて会館内へ入った先は玄関ロビーとなっており左手側に事務窓口がある。
 扉には開閉センサーが取り付けられており、扉が開いた際に事務室内に報知ブザーが鳴る。ブザーを聞いた事務員が窓口に出てきて受付をする手筈となっている。学生証か職員証を事務員に提示し、受付用紙に時刻と名前を記入すれば利用可能になる。
 問題は事務室側からロビーに向かって突き出すように設置されたカウンターにある。ふたりで入館する場合、ひとりが入館対応をしている間にもうひとりがカウンター下を四つん這いに進めば見つかることなく入館できる。
 西條は眉間を揉む。古い施設とシステムのためこういった侵入は容易にできる。しかし白郷の関係者がひとりでもいれば利用して問題がないのだ。咎められる理由はないのだからそうまでして入り込む理由が分からない。それに、その方法をとるにはひとつ条件が必要となってくる。
「防犯カメラが起動しているはずです。映像は確認しましたか?」
 玄関ロビーにはカメラが設置されていたはずだ。詳細な仕様は知らないが通常のカメラの画角であればカウンター下も映っているはずである。
「残念ながら、カメラが作動していなかった。金曜日の昼から死体発見までの丸三日分。壊れていたんじゃなくてレコーダーの電源がいったん落とされて、再度入れられていた」
 古いタイプのレコーダーのため電源が復旧しても自動録画は開始されないらしい。おっとりとした事務員がコンピュータ関係に疎いことは、こちらも一度でも利用したことがある者ならば知っているだろう。あの事務員であればレコーダーの電源は入っていることは確認しても録画されているか否かは気づかない。普段は事務員ふたりで対応しているはずだが、もう一方の同僚は長期休暇で不在にしているタイミングでもあった。
 カメラが動かなくなった金曜日に心当たりがあった。むしろその重要な事実について今気がついた。
「金曜日、田端と雨宮さんは髙山会館にいっています。もうひとり学部生も連れてですが。田端が試験責任者の実験があったんです」
「田端の入館記録が残っていた。雨宮もいたのか」
 つまりふたりは金曜日、土曜日と二日連続で髙山会館を訪れたことになる。
「すこしお待ちいただけますか。金曜日にふたりと一緒にいた学部生に確認をとりたいことがあって」
 事務室にはコピー機があるため、事務室内に利用者がいたとしても事務員が警戒することはない。事務員はひとりしかいなかった。隙をみてレコーダーの電源コンセントを抜き差しすることは容易であったはずだ。学部生に確認したところ、田端もマリーもコピー機を利用したらしい。ふたりが事務室へ出入りしたことを磯山に伝える。
「前日にカメラが作動しなくなったから芹崎は入館出来た。その仕掛けが出来たのも二日連続で髙山会館にやってきたふたりの可能性が高い」
 西條は頷き返す。事務員の勤務状況を把握し、あらかじめ防犯カメラを前日に止める。ふたりのどちらが犯行に及んだと考えるのが、西條としても妥当であると思えた。共犯の可能性もある。
 芹崎は殺されるべきして計画的に殺害されたのか? そうであるならば、なぜ髙山会館で殺害される必要があったのだろうか? 死体は早期に発見され、防犯カメラの停止と殺害のふたつの犯行機会から警察では既に容疑者はふたりにまで絞られている。計画性と無計画性の混在が西條を悩ませる。深く息を吸うと重い溜め息をついた。
 予想通り、早急に田端とマリーの土曜日の行動を探って欲しい、ということが磯山の依頼だった。刑事が押し掛けるより西條相手になら重要な情報を漏らすかもしれないという算段である。
 壁に掛けられたカレンダーを見やる。二日前の土曜日、いつも研究室にいるはずの田端は顔を見せなかったし、マリーは夜遅くに西條の住む賃貸マンションを訪れていた。
「それは捜査協力ということでしょうか? ふたりに絞れているなら僕なんかが何かせずとも警察で事足りるでしょう?」
「機密情報なので詳しくは言えないが、この界隈でいくつかの事件が発生してしまって人手が足らない」
「それでもおふたりで――」
 磯山の顔を見て思わず言葉に詰まる。磯山は不敵な笑みを浮かべていた。
「君、雨宮さんと不倫しているだろ?」
 しらばくれようとして、思い直した。証拠は掴んでの発言だろう。先ほど『マリー』と呼び捨てにした時に、磯山が見せた白い歯の意図をようやく理解する。
「……仮にですよ。仮に刑事さんの思っている関係だとしても、不倫と今回の事件は関係ないかと」
「そうだねえ」
 磯山は素直に西條の言葉を肯定する。
「関係ないけど、うっかり森瀬教授や雨宮さんの夫に伝えちゃうかもな。教授からの心証は最悪だ。ああ、慰謝料も必要になるだろうな。西條君、ずいぶんと優秀な研究者らしいけどまだ学生の身、まともに研究続けられるかね」
 院生など教授の一存でいくらでも生き死にが決まる。なんとか修了できたとしても、分野の第一人者で人格者の森瀬の元を離れた人間をよそが受け入れるとは思えない。仲立ちもなく海外の大学に行っても、自由に研究できる状態に持っていくまでにかなりの遠回りをする羽目になる。
 わざと聞こえるように舌打ちをすると磯山は満面の笑みを浮かべる。
「僕が虚偽の報告をするかもしれませんよ。田端との友情に心打たれるかもしれないし、大好きなマリーを何としても守り抜くかも。ふたりの犯行はどう考えても不可能だったと、十分な理論武装をするかも」
「それはない」
 磯山はにべもなく言い放つ。
「短い時間でも分かるもんだ。君にとって研究の世界で生きることが何よりも優先される。他人を守るために自分を犠牲にはしない。不必要なリスクは取らない人間だ」
「冷酷そのものみたいに言わないでください。聞こえはよくない関係ですが、愛する恋人だっているんですし」
「愛情は否定しないが、君に都合がいいから今の関係に甘んじているんだろう? 何かあればいつでも切り捨てられる。不利益を被るなら君はそうする」
 多少の違いはあれ磯山の指摘はおおむね違いない。西條は真実を解き明かしたい気持ちが何よりも大切であった。煩わしい時間を浪費せずに研究に没頭したい。マリーとの付き合いにはその利点を見出していた。
 西條はふたたび大きな溜め息をつき、顔を上げる。
「分かりました、やりますよ。まさか正義の刑事さんが脅迫して捜査協力させるとはね」
「俺のモットーは最速で成果をあげること。利用できるものは最大限利用させてもらう。泥臭く足で稼ぐだけなんてやってられるか。正規の手続きを取る前にさっさと手柄あげとかないと、じじいたちに手柄を掠め取られるからな」
 軽口を叩いているが実際には泥臭く動いているはずだった。事件発生からすでにかなりの情報を得ている。それでも渡り歩くには厳しい世界だということは想像に難くない。
「ただし条件があります。今度テム社と共同研究で心理実験をやるんですが、被験者が足りてません」
 テトロミノ実験の様子から磯山は触覚フィードバックに影響されやすい特徴を持っているようで被験者としては望ましい。
「いいぞ、その代わり謝礼はちゃんとくれ。刑事なんてなるもんじゃないよなあ。こんなきついのに給料安いし」
 明朝に西條宅近くのカフェで会う約束をする。警察の予定では明日の午後にふたりの元へ事情聴取に行く予定らしい。磯山としてはその前までに手柄をあげたいことだろう。ふたりの刑事が居室をあとにする。廊下を曲がって姿が見えなくなるまで見送った。
 協力したとしても時間は奪われる。不愉快ではあるが研究の邪魔になるものを取り除くことができるなら労は惜しまない。面倒な作業になることは確実だ。西條は三度目の大きな溜め息をついた。

(2/3)へ

(3/3)へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?