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ウブメの揺り籠

〇簡単な登場人物紹介〇
・五条尊(ごじょうみこと)
大学1年生。19歳。両親はおらず、叔父に当たる人物に育てられた。
いつも眠そうな、無気力大学生。
精霊との対話、式神、精神世界への介入など、極めて高い霊能力を持つ。
しかし、その代償として『睡眠時間分の記憶を失う』という特異体質を生まれ持った。そのため、記憶障害に悩まされている。

生まれつき喉に蛇の形をしたタトゥーのような黒い模様が刻まれている。この模様を持つものは1000年に一人生まれてくるかどうかと言われており、それと共に、この模様を持った者が生まれてきた場合、『邪神の再来』が起きるとされている。(東京十社所有の巻物の中に記載されている情報)

※精神世界…黄泉へと続く道。現世と黄泉の境の、中間地点の空間のこと。仮死状態の人間は、この空間で生死を彷徨うとされている。

※記憶障害…睡眠時間分の記憶を失ってしまう。原因は不明。なお、記憶を失うのは、主に人と関わっている時間。勉学などのそれには該当しない。
(例:7時間実働、1時間睡眠 = 6時間分の記憶しかない。ちなみに、1時間分の記憶の消滅は、主に睡眠に入る直前の記憶が失われるとされる)

・柳浩平(やなぎこうへい)
本作の主人公。専門学校2年生の20歳。現在、ゴシップ記事や心霊現象を取り扱う、Web系記事事務所でアルバイトをしている学生。頼られたら断ることが出来ないお人好しな性格をしており、ある心霊現象の事件をきっかけに五条と出会い、そして奇妙な事件に巻き込まれてゆく。
精神的に大人びた意見を述べることもありつつ、だがしかし五条と言い争ったりと、子供っぽいところも垣間見える。基本的に年相応な青年らしい。


・間島舞花(まじままいか)
『産女』に憑かれてしまった女子大学生。2年生。芸能界へスカウトされるほどの美貌を持つ。芸能界に興味はあるものの、本人は自分が活躍するよりも、支える側の人間になりたいと考えているため、芸能マネージャーになりたいと思っている。男運がすこぶる悪く、DVをする島崎健太と別れられずにいる。


・神田大和(かんだやまと)
五条尊の遠い親戚。五条神社の摂社である『神田神社』の神主。そして、五条が通う大学の心理カウンセラー兼、犯罪心理学研究員。いつも飄々とした立ち居振る舞いをしており、その真意は掴みづらい。男性か女性か判別がつかない程綺麗な顔立ちをしており、誰も神田の性別を知らない。大学内でも密かに七不思議のひとつとされている。


・神田禅(かんだぜん)
大和の弟。五条の人学年下の18歳。
高校を卒業してすぐに家を出た、家出人。しかし、大和とは引き続き良好な関係を築いており、なにかと仕事の手伝いをしている。何の仕事をしているのかは不明だが、非常に交友関係が広く、あらゆる界隈の有識者と面識がある。その顔の広さに、度々五条たちは救われることになる。なお、束縛を嫌い自由を好む性格をしているため、大和でさえも彼がどこで何をしているのか不明。


・東京十社とは
東京都内に鎮座している、政府管轄の神社。
一条、二宮、三条、四宮、五条、六呂、七宮、八神、九十九、十都からなり、それぞれ日本古事記に登場する神を祀っている。(五条には須佐之男命が祀られている)

東京十社の人間は、個人差はあるが、それぞれ大なり小なり不思議な力を身に着けており、政府からの要請で、それぞれの管轄で『憑物』と呼ばれる妖怪を祓っている。民間人はおろか、政府内でも限られた人間しか、『憑物』のことは知らない。政府内に独自の組織がある。『内務省特殊事件執行科』※現在、内務省は廃止されているが秘密裏に残っており、当時の名残から内務省特殊事件執行化と名づけられている。なお、所属している人間は、社会的に抹消されることになっている。


・憑物とは
名のある者から名もないものまで存在する、人の魂に取り付き食らう妖怪。
(例:産女、座敷童、ぬらりひょん など)
人の精神に潜り込み、人間の心を内から破壊していく。不思議な力が宿る東京23区にのみ、現れるとされる。名を持つものほど強力な力を持つ。


『ウブメの揺り籠』


今から約二千年前。
邪神が、月から攻めてきた。
海は荒くれ、大地は干からび、生命は幾重も摘み取られていった。

我らの祖先は、創世の柱と契りを交わした。
この大地を創り上げた、神の五柱。
柱は、契りの代わりに、我らに力を賜った。

ある物は式神を、ある者は精霊の力を。
また、ある者は、心の世界を行き来する力を得た。

荒事は静まり、邪神は月へと還ってゆく。
邪神は言った。

『ゐズレ、又、コノ土地ヲ我ガモノへ』

そう言って邪神は、最後の力を振り絞り、この土地に≪妖(あやかし)≫たちを放った。妖は、人々の心に取り付き、心を巣食う≪憑物(つくもの)≫へと変貌した。
それからというもの、東京十社に仕えし我らは、五柱との契約により、代々≪憑物≫を祓う一族となった。

我らは、まだ生まれて間もない赤子に、ある印を施した。
邪神が、何十年、何百年、何千年先に訪れるだろうその時に、もう一度、この呪印を持った者が生まれてくるために、祈りを込めて。
そして、呪印を持った赤子が生まれたその時は、再び我らは戦わなくてはならない。
この地を、生命を、守るために—――。

記『一条神社創世記書説』

 柳浩平(やなぎこうへい)は、大学の敷地内を歩いていた。夏が終わり、ちらほらと木々が黄色味を帯びてきている。はらりと枝から落ちて地面を彩っている葉っぱをザクッと踏みしめながら、柳は敷地内にある第2校舎へと急いだ。ある女子学生に取材をするためだ。
(しかし、広い敷地だな……)
 片手をポケットに押し入れ、もう片方の手でスマホの地図アプリを起動させながら、歩くスピードを早める。
 専門学校で写真を学び、在学中に「記者になりたい」と漠然と思った柳は、ゴシップ記事を取り扱う小さな出版社でアルバイトを始めた。そこは、芸能人のスクープから心霊現象のうわさ話まで、売れると判断したものはなんでも調べ上げ、記事にして世に垂れ流す、いわゆる≪限りなくグレーなゴシップ事務所≫だった。
 やりたかったのは、花形でもある芸能人のスクープを取り扱う仕事。その理由も至極単純で、隠密みたいで格好いいし、もしかしたら有名女優やアイドルとも知り合えたりして、お付き合いが始まるかもしれないと思ったからだ。
 だが、回ってきたのは、微塵も興味をそそられない、心霊現象に遭った女子大生への取材案件だった。今朝、柳が出勤する前にタレコミが入ったらしい。柳が担当になったのも、編集長の「お前が一番若くて大学生っぽいだろ」という理由。
(さくっと取材して、テキトーに話盛り込んでまとめよ)
 どうせその女子大生とやらも、面白半分でタレこんできたのだろう。全く、大学生にもなって心霊現象などほざいている奴の気が知れない。
 頭の中で毒づきながら、柳は敷地内を進んでいく。
 ふと、視界の左側に黒い人影を捉えた。緑が生い茂った林の中。一瞬見間違いかと思い顔を向けてみると、今度はしっかりと人の姿が確認できた。
 ここの学生だろうか。パーカーのフードを目深に被り、フードから垣間見える瞳を、黒く長い前髪が覆い隠してしまっている。男の背丈は百七十五センチ程度。猫背気味だから、しゃんと立てば百八十はあるかもしれない。フードを目深に被っているため表情はよく見えないが、やけに静かな佇まいだ。ただ、落ち着いている、という言葉では片づけられないような、凪いでいるような感覚。
 次の瞬間、懐かしい香りが、ふわりと鼻を掠める。それは、実家に毎年咲く、芳ばしい金木犀の香り。しかし、自身の記憶にある、あの花独特の艶めかしいものよりかは、幾分温度感のある香りだ。
 香りは、左に見えている男の方角から香って来ていた。男はこちらに気付いていないのか、緑の中で目を瞑り、ただじっとしているだけ。
 サァサァと風が木々を揺らす音が、神経を刺激する。ほんの数秒の時間の流れが、やけに永く感じた。
「うるさい」
 惚けたように立ちすくんでいると、突然、男の唇が動いた。耳に届いたのは、久しぶりに言葉を発しましたと言わんばかりの、少し掠れた声。男が発したのであろう音は、小さかったのにも関わらず、やけに柳の鼓膜の奥に響いてきた。
「視線がうるさいし、まとっている気配がやかましい」
 淡々と発せられる言葉を、ただ立ち尽くして聞いているのみになっていた柳は、ハッとして男の方へと身体を向けた。
「なんだ?いきなり攻撃的だな」
 男の纏う雰囲気に負けじと、少し遠くにいる男へ向けて言葉を返す。自分的には少し小さいかと思ったその声さえも、彼には大きく聞こえたのか、軽く眉間に皺を寄せていた。
 ……全く、失礼なやつだな。
「そんなことはない。精霊たちもそう言ってた」
 ……はぁ?精霊?
 コイツ、大学生にもなって厨二病を患っているのか?
 まぁ、俺も有名女優と知り合いになりたいからと記者を目指すあたり、まぁまぁ夢見がちだが。
「なんだそれ、どうやってそんな非科学的な存在の声を聞くんだよ」
「……お前には一生聞こえないだろうな」
 口の減らない男だ。初対面だけど、コイツは嫌いだ。
「おっと……」
 丁度その時、この失礼な男の丁度先にある、第二校舎へと向かっていく人影が見えた。
 少しピンク寄りのブラウンヘアー、身長は165㎝そこそこで、肌は色白。おまけに、異常ともとれるほどの沢山のお守りを、いつも使用しているトートバッグに付けていると言っていた。その特徴にピッタリ合った女が、公園へと進んでゆく。
 そうだ。この男と言い争っている暇はない。早くあの女学生に取材をして、さっさと帰って記事を纏めなくてはならないのだから。
 なにより、大学なんて遊び呆けているような学生のたまり場、長居したくない。統計的に、専門学生というものは、どこか大学生をバカにしている節がある。楽ばかりして大して忙しくもない、≪人生の夏休み≫を謳歌しているお気楽野郎共、という認識だ(柳調べ)。
 目の前の男を無視して、林の奥の公園へと足を進める。
「おい」
 丁度、男の横を通り過ぎようとした時、呼び止められた。先程までの声量とは違い、どこか凄むような、どっしりとした声が柳の耳に届く。
「なんだ?」
 呼び止めたきり、男はなにもアクションを起こさない。あまり時間がないというのに、なんだというのか。
「あまり余計なことはするな」
「余計なこと?」
「お前がどこの誰かなんて僕には関係ないが、僕の邪魔だけはするな」
 何を言っているのだ。コイツは。今日会ったばかりで、今後一切関わる予定なんてない男に、なんで俺が迷惑なんか。
「心配しなくても、仕事が終わればこんなとこ、さっさと出ていくさ」
 そう言いながら、今度こそ男の隣を通り過ぎる。
 通り過ぎる最中、男の横顔を一瞬見やる。
 男は、こちらを一瞥することなく、ただ柳が居た場所をじっと見ているだけ。
 なんだか、人形みたいで気味が悪い。だから、高学歴の大学生なんて、嫌いだ。


―――――――――――――――――――――

「間島舞花(まじままいか)さんですね?」
 やはりタレこんできた女子学生は、先程神社へと向かっていた女で合っていた。
 バッグに付けているお守りの数は尋常ではないが、それ以外は至って普通の女の子。いや、そこら辺の女よりも、断然美人だ。これは、思わぬところでアタリを引いたかもしれない。こんな美人とお近づきになれたんじゃ、さっきの男との最悪の時間にでさえ感謝したくなる。
「はい……」
 間島は少し怯えているのか、柳と目を合せようとしない。ずっと俯きがちで、赤色で綺麗に塗りたくられた爪を見つめている。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。俺、結構社会人に間違われるんですけど、こう見えて君とそう歳は変わらない学生なんで」
 そう言って、自身が通っている専門学校で付与された学生証を彼女の前に掲げてみる。
 すると、間島は少し驚きながら、ほっと一息つくように胸を撫で下ろした。
(そこまで老けこんでいるように見えたのか?)
 自身ではまだまだ真っ当な学生のつもりだったから、そこまで分かりやすく安堵されたら、さすがに傷つく。
「いえ……。あの、ごめんなさい。私、緊張ばっかりで」
 今度は、俯きがちながらも、上目遣いでこちらの目を見てくれるようになった。取材では、どれだけターゲットに信頼してもらい話を引き出すかが鍵となる。まずは、これだけでも十分な進歩だ。
「全然、問題ないですよ。普通、こんなの(俺)に「心霊現象のこと教えて」なんて突然訪問されたら誰だって警戒します。間島さんの反応は、人として正しいものです」
 わざとおどけた様子で話を展開すれば、間島は口元に手を当て「ふふ」と笑いを零した。
 美人は、怯えた顔も、笑った顔も、美人だ。
「なにからお話すればいいのか分からないんですけど……」
 そう言って、おずおずと彼女は話し始めた。

 最近、彼氏が出来たこと。
 その彼氏が十歳年上だということ。
 そして、自分の同意もなしに、避妊具を付けずに性行為に及んでくること。
「ごめんなさい、初めて会った男の人に、こんなこと言うのは……」
 彼女は申し訳なさそうに謝って来るが、むしろ謝りたいのはこちらの方だ。同じ男として、彼女の彼氏は最低だと思うし、この話を聞いて、脳は無意識にその情景をイメージしてしまい、目の前の彼女に土下座をして謝りたい気分になる。
「いや、こちらこそ、俺が女じゃなくてすみません……」
 女の記者であれば、こういう話もしやすかっただろう。
「それで、やめてくれそうにもないから、ニカ月前くらいからピルを飲み始めたんです。元々生理も不順気味だったから、丁度いいと思って……。そしたら、それが彼氏にバレちゃって」
 そう言って、彼女はギュッと、自分の腕で身体を包み込むように抱いた。細い腕から、うっすらと赤黒い痣が見て取れる。
「初めて、殴られたんです。一瞬、何が起きたのか分かりませんでした。最初は顔を殴られて、でも、顔は目立つからって、今度は身体を……」
 腕の痣は、殴られたものだったのか。彼女は、時折話している声色を震わし、喉をつまらせるようにしゃくり声を上げていた。
「それから、しばらく経って、私の周りに妙なことが起こるようになりました」
「妙な事?」
 聞き返すと、間島はふるふると首を盾に振った。
「突然、赤ちゃんの泣き声が、聞こえてくるんです。初めは、ゼミで帰りが遅くなった時に、夜の学校でしか聞こえなかったんですけど、最近は昼間にも聞こえるようになって……。この近く、住宅街も見当たらないし、どう見ても林しか広がってないから、絶対に可笑しいって思って……。しかも、どうやら私にしか聞こえてないみたいなんです。周りの子に聞いても、誰も聞こえてないって……。」
 まくしたてるように一気に話し終え、息が切れたのか、肩を上下に揺らして息を整えている。
「落ち着いて。ゆっくり息をして」
 心配する素振りを見せて、間島の肩に手を置く。一瞬ビクッと身体を強張らせたが、直ぐに力を抜いて、こちらを見つめてきた。
「お願い……助けてください……」
 力なくこちらを見上げ、懇願してくる間島。
(参ったな……。取材をしに来たつもりが、がっつりお悩み相談室に……)
 まぁ、こんな美人に頼られるのも、悪い気分ではない。
「本当は取材だけ、という話だったんですけど……こんな美人に頼まれたんじゃ仕方ないですね」
 なんて格好つけて言ってみたりする。その言葉を聞いて、間島の顔が明るくなる。そんなに喜んでくれたんじゃ、なおさら引く訳にはいかない。
「ありがとうございます……。お礼なら何でもしますので」
 深々と頭を下げられる。彼氏と上手くいっていない、美人の女の子。しかも、相当気が滅入っている。これは、もしかするのではないか?こうなってくると、頑張らない訳には行かない。
 邪な気持ちがないわけではないが、取材を成功させるために、彼女の心霊現象の解決に協力することにした。
 とはいえ、柳は特に霊感が強い方でも、心霊現象なんぞを素直に信じているタイプの人間ではない。間島の怯え具合から、冗談で言っているようにも思えないが、いかんせん科学的根拠がない話だ。まずは、己でその心霊現象を体験してみる必要がある。
 柳はまず、間島が初めて赤ん坊の声を聞いたという場所まで案内してもらった。そこは、学校のすぐ近くにある、遊具がブランコと鉄棒くらいしかない、小さな公園だった。
 もう日も暮れて、真っ暗な闇が広がっている。その闇を、併設されている街灯が心もとなく足元を照らしている。
「最初はここで。帰るときにちょっとでも近道したくて、横切って帰ってたんです」
 帰っていた、ということは、最近は別ルートで帰っているということか。
「大体、暗くなったこの時間……」
 話の途中で、間島は柳の腕を掴んだ。女の子に腕を引かれることなんてここ最近めっきりなかったから、妙に心臓が跳ねた。
「ど…どうしました?」
 気が動転しすぎて、噛んでしまう。
「聞こえる……いや……」
 間島は、顔を俯かせ、柳の腕をギュッと抱きしめてカタカタと身を震わせている。どうやら、経った今、例の心霊現象の真っ只中らしい。
「落ち着いて、俺の声聞こえる?」
 なんとか間島を落ち着かせようと、間島の顔を覗き込む。
 見た瞬間、ギョッとした。
 あんなに美しかった間島の顔は、まるで先程までの面影もない程に、恐怖でぐしゃぐしゃに歪んでいた。まるで5五十年ほど一気に歳を取ってしまったような、しわくちゃの顔だ。流れる冷や汗も尋常ではなく、蒼白した顔は、今にも死んでしまいそうなほど血が通っていない。
「ぅわ……」
 無意識に、間島に絡められている腕を振りほどこうとしてしまった。
 だがしかし、間島はとても強い力で柳の腕を引いていて、決して離そうとはしない。
 ダメだ、怖い、気持ち悪い、ダレカ……。
 いよいよ、恐怖心が柳を蝕み始めたところで、柳たちの元へとやってくる足音。
「だから、余計なことはするなと言ったんだ」
 先程聞いた、久しぶりに言葉を発しましたと言わんばかりの、少し掠れた声。
 声の主は、公園の中心で立ち尽くしている柳たちの側に来たかと思うと、一つの札を取り出し、眉間に掲げた。
「『汝、心を鎮めよ』」
 男がそう言うと、札がポウ……と明かりを放ち、現れた金色の光が辺りを包み込む。一瞬の強い輝きに思わず目を瞑る。
「……!」
 目を瞑っていても目が痛くなるくらいの輝きが、段々と弱まってゆく。それと同時に、左腕がふっと楽になったような気がした。
 目を開けて直ぐに、状況を確認しようと、柳は自身の左に居た間島を見やる。しかしそこには、先程まで柳の腕を掴んで離さなかった彼女の姿はなく、視線をはるか下に向けると、間島はぐったりとした様子で地面に倒れていた。大丈夫か、と手を伸ばそうとしたものの、先程の彼女の形相が頭を駆け巡り、軽く吐き気に見舞われて、柳はその場に蹲る。
「ここで吐くなよ」
 頭上から、腹が立つほどに飄々とした声が聞こえた。
「……吐かねぇよ」
 本当は気持ち悪くて仕方がないが、目の前の男に弱さを見せつけているみたいで嫌だったので、気合で立ち上がる。男はそんな柳を一瞥し、倒れている間島を自身の背へと抱え、スタスタと歩き出してしまう。
「おい、どこ行くんだよ?」
「医務室」
 短く告げると、今度こそ男はこちらに目もくれずに、間島を背負って歩き出した。
 一人でこの場に残ることに居心地の悪さを覚え、柳も、憎たらしい男の背に続くことにした。

――――――――――――――――――――


「尊が友達つれてくるなんてな。珍しいこともあるもんだ」
 大学の医務室と呼ばれるところに足を踏み入れると、薬剤の香りが鼻をツン、と刺激した。それと共に香って来るのは、紅茶の香ばしい香り。それと、独特な話し方をする、白衣の……。
「……失礼ですが、女性ですか?それとも男?」
 どっちか本当に見分けがつかないほどの、中性的な人間。
 どうやら柳の反応が面白かったらしく、目を丸くした後に口元を手で抑えて「ふふ」と小さく笑った。美形は皆、そんな笑い方をするのがセオリーなのか?
「別に、そんなのどっちでもいいじゃないか。私は神田大和(かんだやまと)。この大学で非常勤教授、兼スクールカウンセラーをしている。あ、後、時と場合によっては医務員もね。……それよりも」
 ちらり、と間島の方を見やる。
 運び込まれたベッドで、規則正しく寝息を打っている間島は、一向に起きる気配がない。
「男二人で、女の子をいじめたのかい?」
 頬杖をつきながら、ジトッとこちらを見つめてくる神田。柳はその視線から逃れるように憎たらしい男を見るものの、当の本人は素知らぬ顔で間島の寝顔を見つめている。
「……ふ、冗談だよ」
 神田は、頬杖をついていた腕を、男の肩に乗せる。
「全く……。恐らく尊は、君に挨拶もしてないんだろう?五条尊(ごじょうみこと)。私の……うーん、甥っ子ってとこかね?」
 五条は、肩に置かれた神田の手を振り払うように、身を捩った。なんだか、反抗期の子供が親の言うことを聞きたくない、といった駄々のこね方だ。
「まぁ、この通り、尊は少しばかりシャイな所があってね。仲良くしてやってくれ」
 神田と五条だと似ても似つかないが、神田が五条を見つめる目は、親族のそれとよく似ている。
「いや、俺、コイツと初めて会ったばっかなんで。ていうか、そもそもここの学生じゃありませんし」
「へぇ?では、ここの学生ではない男が、なぜ、この敷地内で、ややこしい問題に巻き込まれちゃっているのか?」
 神田の瞳が、柳を射止める。どこか攻め寄られているような感覚に、おもわずドキリと胸が高鳴る。確かに、ここの生徒ではない柳が他大学で起きた問題に巻き込まれれば、学校を挟んでの惨事になりかねない。
「……というか、そいつは一体何なんだ?いきなり現れたと思ったら、変な札を出したり、光を出したり……」
 神田の視線から逃れようと、話を擦り変える。神田は柳の話を受けて、瞳をパチッと瞬きさせた。
「……驚いたな。尊、まさかやっちまったのかい?」
「……非常事態だ」
 五条は、何食わぬ顔をして、神田の問いに答える。話の意図が読めず、ただ置いてけぼりになっているが、それでも、柳には想像もつかない話をしているのだと分かる。
「はは、あの尊がねぇ。珍しいこともあるもんだ。今夜、お赤飯でも炊いてやろうか?」
「調子に乗るな」
 神田は面白可笑しそうに、お腹を抑えてクツクツと笑い、五条をからかっている。対する五条は、頬杖を付きながらムスッとした表情を浮かべていた。
 ひとしきり笑った後、神田が柳に向き直る。
「あれを見てしまったら、尊の正体が気になるのも無理はない。うん、いいだろう。尊の秘密を教えてあげよう」
 ズイッと、神田は身を乗り出す。こそこそ話をするかのように口元に手をあてがい、声を潜ませて柳に話す。
「実は尊はね……魔法使いなんだ」
「……は?」
 ニタニタと笑みを浮かべる神田。言われなくても分かる。これは、おちょくられている。
「クク……まぁ、嘘だけどね」
 それは誰でも分かるだろう。という念を込めながら、ジトリと神田を睨みつけた。
「はは、そう睨まないでくれ。似たようなものだ。まぁ、その話はおいおいするとして……」
 本題に戻ろう、と、神田は真剣な瞳を真っすぐ、柳に向けた。これ以上は逃げられない、と観念して、柳は口を開く。

「……実は———」
 柳は二人に、ここに来た経緯、そして間島から聞きだした、彼女の身の上話を、間島の尊厳が守られる範囲で離した。
 二人は黙って聞いていたが、五条は、時折苦虫をすりつぶしたように顔を歪ませていて、初めて会った時から感情の浮き沈みがないコイツが、ちゃんと人間であることを再確認した。
「それで、話している途中で、間島さんが急におかしくなりはじめて……」
「あんだけ不安定なモン身籠ってたら、そりゃおかしくもなるだろ」
 柳の声を遮るように、五条の声が覆いかぶさる。
 五条の言っている意味が分からず、柳は首を傾げた。
「それって……彼女は既に、彼氏との子供を身籠っているってことか?」
 ピルを常飲していると言っていた間島に、子供が出来ていた?ありえない話ではないが、すらっとしたスタイルを保っていた間島を見て、なんでコイツはそんなことが言い切れるんだ?
「尊。言葉が足りなすぎる」
 神田が息を吐いて、やれやれと首を横に振った。
「信じ難いかもしれないけれど、これは、君たちが言うとこの『心霊現象』というもので間違いない」
 思わぬところで心霊現象を認める者が現れた。しかもそれが、教員でもありカウンセラーときた。
「まて、なんでそんなことが分かるんです?」
 その質問に、神田は困ったような笑みを浮かべた。
「ふふ……それは聞かないでもらえるとありがたいんだけどな。話が大分長くなるし、これでも内緒事なもんでね」
 人差し指を口の前に当て、しー、というポーズを取る神田。不覚にもドキッとしてしまう。
「それじゃ、尊。君の見解を聞かせてもらえるかい?」
 神田のその言葉を皮切りに、五条はポツポツと話始めた。

 柳が依頼を引き受けた一週間前。
 五条は偶然、大学付近にある神社で間島がお参りする様子を目撃した。その時は、間島の顔も名前も一致していなかったが、怪奇現象が起き始めて、すぐに認識したらしい。
「なんで五条が神社なんかに?何も信じてなさそうなのに」
「今そんな話はしていない」
 ギロリと五条に睨まれる。どうしてコイツは、こんなにも仏頂面なのか。
「すまんねぇ、本人の中では、これでもスキンシップを取っているつもりなんだ。大目に見てやってくれ」
 神田のフォローも無視して、五条はどんどん話を続けて行く。スキンシップなんてまるで取れてない。むしろ、どこまでも我が道を突き進んでいる気しかしない。
 絶対友達いないだろ、コイツ。
「それで、しばらく精霊たちを通じて彼女の様子を伺ってた」
 右手を胸の前に掲げ、手のひらをじっと見つめる五条。俺には、その視線の先にはなにも見えなかったが、五条と神田は何かを感じ取っているのか、その手に視線を向け続けている。
「あのさ、さっきから精霊とか言ってっけどさ、マジでそんなのいんの?」
「いるから、こうやって話をしているんだろ」
 いや、全く見えねぇし聞こえねぇから聞いてんだろ。と思ったが、また睨まれそうなので止めておいた。
「それで、ここ最近、この辺りでよく精霊たちが目撃している妖が居た」
 五条はそう言うと、パソコンでなにやら検索をし始める。神田と共に五条が検索した画面を覗き込むと、そこには『産女(うぶめ)』という検索ワードと共に、沢山の文献が並んで表示されている。目が痛くなる文字列に、軽くめまいを覚える。
「産女は、難産で死んだ女性の霊だ。これが、間島に憑りついている可能性が高いと僕は推測している」
「なんだそれ……。なんで間島さんに、そんな物騒なもんが憑いてんだ?」
「そんなの知るか。憑いている奴に聞いてみろ」
 五条はそう言うと、医務室を出て行こうとする。
「尊、どこ行くんだい?」
 呼び止められた五条は、深くため息を吐き、半分こちらへ身体を正体しながら、神田の問いに答える。
「準備。これ以上先延ばしにしたら、間島は、死ぬ」
 五条はそう言い残して、今度こそ医務室を出て行ってしまった。

――――――――――――――――――――
取り残された柳は、神田の計らいで今夜は家まで送ってもらえることになった。
「いいかい、今日会ったことは、誰にも言ってはいけない。もし記事になんてでもしたら、妖よりもも~っと怖いモノに憑りつかれてしまうからね」
 脅しともとれるその物言いに、これがカウンセラーを勤める人間がする所業か、と思いつつ、大きく頷いた。
 柳の反応に満足したのか、ニコッとした笑みを浮かべ、神田は車を走らせて、元来た道を帰って行ってしまった。

 その次の日から、柳は早速、間島の周辺にいる人間への聞き込みを始めた。間島はあの外見の通り、入学時からほどほどに目立つ人物らしく、同い年の学生は間島の名前を出すと、大体「あ~、あの子ね」という反応を見せた。それは、目立つ学生に対する好奇心のようなものにも取れるし、ちょっと子馬鹿にしたような、羨望や嫉妬という感情が、腹の底に沈んでいるようにも取れた。
「最近、どこの神社かも分からないお守りを鞄にいっぱいつけて……どうしたんだろうって心配してたんですよね」
「いや、絶対なんか変な宗教入ったでしょ!」
「そういえば、彼氏が暴力団の人って聞いたことある。かなりやばいらしいよ」
「え!私普通のサラリーマンって聞いてたんだけど!」
「なんにせよ、まじで最近変わったよね」
 その中でも、特に噂話が好きそうな、今時の女子大生三人組に的を絞った。派手な風貌の女、その女と張り合うようにギラギラとした装飾品を身に付けている女、その少し後ろで、その二人に比べれば控えめだが、明らかに「私、この二人より可愛い」と思ってそうな、小柄な女。
 出張っている派手な二人は、間島の事を何とも思っていないのが分かる。せいぜい、退屈しのぎの噂の出所の一つ、と思っているくらい。だが、その後ろの小柄な女は、明らかに間島に対して敵対心を見せている。大方、自分より男にちやほやされている間島の事が気に入らないのだろう。
「その彼氏って、どんな人か分かる?」
「知らな~い。うちらあの子とあんま仲良くないし」
 どうにか、その彼氏の素性やら容姿やらを知っている人はいないものか。間島の交友関係は広く浅くらしく、特定の学生とつるむという事がほとんど無かったらしい。
「そういえば、島崎ちゃんって、間島さんと幼馴染って聞いたことある!結構昔から知ってるみたいだよ?出身高校も同じだし」
 小柄な女が、人差し指を顎に当てながら、首を少し横に傾ける。可愛いと思ってやっているのだろうか。だが、はっきり言って、小動物みたいで少し可愛い。
「え、その子、今どこにいるか分かる?」
「一応連絡とってあげることは出来るけど……」
 小柄な女は、こちらにちらりと視線を投げた後、ニタリと口元を歪ませた。なんだか、嫌な予感がする。
「実はね、私、芸能界って少し興味があるんですよね~」
 これは……どこかパイプを紹介しろということか。それにしても、自分で言ってくるなんて、凄い自信がある子だな。そして、取引で自分を売り込んでくる辺りがなかなかに図太い。
「え!美奈子、芸能界に興味あったのかよ!ウケる!!」
「美奈子が芸能人になっちゃったら、うちら芸能人と知り合いじゃん!強くね?」
 強くない。断じて、これっぽっちもお前は強くない。どうせ、この美奈子とかいう女を使って芸能人とお近づきになろうと思ってんだろ。美奈子がお前らに男を紹介する事なんか、百パーない。断言してやる。だが、柳も似たような考えでこの世界に入ったクチだ。少しは心境も理解できる。
「お願い、できますか?」
「え~……と、それは俺には権限ないというか……」
 美奈子の放つ圧に、たじろいでしまう。しかし、どれだけ凄まれたところで、無理なものは無理なのだ。
「あのさ……ここまで話聞いといて悪いけど、俺、本当にソッチ系に繋がりないんだ。だから、今回はこれで勘弁してくんないかな?」
 そう言って、自分の財布から一枚の諭吉さんを渡す。俺も学生の身。正直、諭吉さんが一枚財布から去ってしまうのは、かなり痛いが仕方ない。
「……ちっ、使えないわね」
 協力的だった先程の態度とはえらく違って、舌打ちまでかます始末。つくづく、女という生き物は表裏が激しくて恐ろしい。これなら、お守りをどのくらい持っていようが、まだ間島と一緒に行動を共にした方が、いささかストレスなく過ごせるのではないか。
 ……いや、間島の中にいる産女、と行動をするのは問題があるか。
 諭吉一枚で諦めてくれたのか、美奈子は片手でスマホを操作し、淡々と柳に告げる。
「この後、一時間後ぐらい?に四限目が始まるの。その授業に、島崎ちゃんが出るから、コンタクト取るならそこじゃない」
 ほら、この子。と、スマホの画面を見せられる。そこに映されているのは、茶髪ボブの快活そうな女の子だ。地味、とかギャル、とかでは全くない、良くも悪くも普通の印象を受ける。
「ありがとう……。恩に着るよ」
 お礼を言うと、「ふんっ」と鼻を鳴らして、三人はカフェスペースから出て行ってしまった。
 張りつめていた緊張の糸が解けるように、どっと疲れが押し寄せてきた身体を、深く椅子の背もたれに預ける。
(まだ大して社会の厳しさを知らないお嬢ちゃんめ……。これだから大学生は嫌いなんだ)
 なんて心の中で悪態を吐きたくもなる。
(間島さんの幼馴染を見つけ出すことが、近道か)
 この大学はそこそこ偏差値が高い大学で、噂によると、大学を運営している一族が広大な土地を買取り、山を切り崩して建設しているらしい。更には様々な学部が併設されている為、敷地が笑ってしまうくらい大きいことで有名だ。それに、大学院まであるから、学生数も相当なものになる。そんな中、一人の生徒を探すのはほぼ不可能だった。
 今回ばかりは、あの三人に感謝だな。ていうか、声を掛けた自分を褒めてやりたい。探し始めからなかなか当たりがいい。
(さて……と)
 時間はそんなにない。授業が開始される教室を探しに、柳は重い腰を上げた。

 大学の教室は、どうしてこうもいっぱいあるのか。しかも、敷地内に全ての学科が集中しているせいで、目当ての教室が見つけにくい。授業が始まって、もう十五分が経過しようとしている。
(せっかくのチャンスが無駄になってしまう……)
 それだけは絶対に避けなくては。必死に教室を探すこと更に十分弱。ようやく、島崎が授業を受けているであろう教室へとたどり着いた。
 扉を開けると、学生たちが熱心に授業を受けている様子が目に入る。教室の収容人数が大きいのだろうか、ざっと百人は座席に座っている。この中から島崎を探すのかと思うと、先が思いやられる。
 とりあえず、遅れてきた学生を装って、一番後ろの開いている座席へと腰を下ろした。今行っている授業は、心理学だろうか。大型スクリーンに映し出されている文字には、『幼児心理』という言葉。その授業内容も相まって、女性が多いような気がする。
「何でお前がいる」
 ふと、隣から声を掛けられる。やけに最近聞いた声色だ。
 悪い予感と言うものは、割と的中する者だったりする。そろりと隣を見やると、眠そうな瞳をした五条が、机に片肘をついてこちらを見ていた。
「……なんでいるんだよ」
「それはこちらのセリフだ。授業を受けるんなら授業料を払え」
 いや、そういう問題かよ。しかも、それを五条に言われるのは、釈然としない。
「仕事だ仕事。聞き込み」
 ぶっきらぼうにそう返すと、更に五条は眉間に皺を寄せた。
「は?刑事の真似事か?」
「違うっつの!」
 少し声を張り上げすぎてしまったらしい。前を向いて授業を受けていた生徒数名が、こちらを振り向いた。
「一番後ろの席の、静かにしろ」
 挙句の果てには、登壇している教授にまでマイク越しで指摘される始末。
「す……すみません」
 小さく謝罪の言葉を述べつつ、五条をじろりと睨んだ。しかし、睨まれた当の五条本人は、しれっと前を向いてこちらを見ようともしない。
 ここで言い争っても仕方がない。後ろから島崎らしき姿を探しつつ、先程の三人の話でもまとめるか。
 柳はリュックからノートPCを取り出すと、早速原稿を書き進めてゆく。
「……お前が思っているほど、簡単な話じゃない」
 隣で、五条がぼそりと声を零す。簡単じゃない、というのは、どういう意味なのだろうか。
「なんだって?」
「普通の人間が首を突っ込むな」
「お前は普通じゃないって言いたいのか?」
「そうだ」
 間髪なくそう言い切る五条に、腹が立つと同時に、どこか疑問を覚えた。
 いつもそうだ。コイツは、他人と自分はどこまでいっても相容れないといったような、一線引いているように感じる。これは、柳だけに限らず、旧知の中であろう神田にもだ。
「なんで、お前はそこまで人を突き放すんだ」
 その問いかけに、五条は一瞬目を見開く。しかし、すぐに元の眠たそうな表情に戻ってしまった。
「突き放しているつもりもない」
 ああ言えばこう言う、反抗期の思春期男子か。
「だったらもうちょっと、言い方ってもんがあるだろ」
「なぜだ?」
「そんな言い方されたら誰だって腹が立つ。もし、お前と仲良くなりたいと思っている奴がいても、近寄り難さを覚える」
 何で俺がコイツにこんな事を教えなければならないんだ。どうせ、鼻で笑って「僕は仲良くなりたくない」とでも言うんだろ。
 そう思い五条の方を見ると、五条はこちらを見て、何とも言い難い、驚きと戸惑いを足して二で割ったような顔をしていた。
「……お前、僕と仲良くなりたかったのか?」
 そこまでド直球に言われたら、何と反応すればいいか分からない。いや、別に仲悪くなりたいわけではないが。
「そりゃま、邪険にされたくはないわな」
 照れ隠しにこめかみをポリポリと爪で引っ掻く。ちらりと、もう一度視線だけを五条に向けてみると、なにやら神妙な顔で机の上を見ていた。いちいち、コイツの考えていることは読めない。
「そうか……。それは悪かったな」
「ああ、そう言うと思っ……は?」
「は?」
 今、「悪かった」と言ったか?「仲良くなりたくない」ではなく?
「え、もっぺんいってみ」
「は?何だお前」
 こちらに怪訝な顔を向けた後、五条はまた頬杖をついて眠たげな眼で正面を向いた。だが、先程見せた微妙な表情が尾を引いているのか、下唇がやや前に出張っている。
 どうやら、コイツは俺が思っていたよりも、嫌な奴ではないらしい。
「お前……生きづらそうな性格してんな」
 ぼそっとつぶやくように発した言葉は五条の耳には届いていなかったらしく、五条は、あくびを一度してみせた。
 なんだか、猫みたいな奴だ。
「……前から5列目、右から2番目」
 五条が、突拍子もなく声を発した。
「え、何?」
 あまりにも気が抜けていた時に発せられたもんだから、理解が追いつかない。そんな柳を見て、五条は深くため息を吐きながら、もう一度ゆっくり言い直した。
「探してるのは、島崎だろ。前から5列目、右から2番目に座っている女が、島崎だ」
 そう言って、今度は机に突っ伏して寝る体制に入ってしまった。いや、授業はどうした。
 五条に言われた通り、右側の座席を見てみる。そこには、美奈子に言われた通りの風貌をした女が、前を向いて懸命に授業を聞いている姿が目に入る。
 見た目がパッと華やかな間島とは接点もなさそうな、良くも悪くも普通の女。真面目に授業を聞いている辺りが、先生からの評判が良さそうな子だと思わせる。
 五条は、初めから俺が島崎を探しに来たことに気付いていたのだろうか?その真偽を確かめようにも、当の本人は横で居眠りを始めてしまったわけなのだが。
 やがてチャイムが鳴り、授業の終わりを告げる。
 その合図を皮切りに、学生がゾロゾロと後方の扉へと歩みを進める。さすがに部外者が立ち入っていることに疑問を持たれるかと思ったが、誰も気に留めることはなかった。俺が通っている専門学校では、部外者が立ち入ると直ぐに不信な目を向けられるのに。さすが、学生数の規模が大きいだけはある。しかしその代わりに、なぜか横に座っている五条に、好奇の視線が向かれていた。
「え、五条君じゃない!?この授業とってたっけ?」
「うわ~、久しぶりに見たかも。相変わらず格好いいねぇ」
「え、そーなの?顔あんまり見たことないから分かんない」
「一回正面で見てみ、超格好いいから」
 と、謎のひそひそ話が聞こえてくる一方、
「なんでここにコイツが……?」
「おい、見んなって」
「この間、誰もいないのに一人で話してたってマジか?」
「こえーよ!学校に住んでるとかいう噂もあるし」
 と、気味悪がる声が聞こえてくる。なんとも、根も葉もある噂が流れているもんだ。隣の五条をちらりと盗み見るも、そんな声が聞こえていないのか、チャイムが鳴り終わっても起きる気配すらない。やれやれ……。コイツは本当に、いろんな意味で退屈しない男だ。五条を取材したら、さぞかし面白そうだが、眉間に深く皺を刻んだ本人の、心底嫌そうな顔が頭に浮かんできたからその妄想は止めておいた。
「あ、っと……」
 いけない。危うく本来の目的を忘れるところだった。島崎の席の方を見ると、丁度荷物を片付けて席を立とうとしていた。周囲に人はいない。好都合だ。急いで荷物を纏めて、島崎がいる席へ歩みを進める。
「すみません、ちょっと」
「ん?」
 声を掛けると、伏せられていた瞳が柳を捉える。背が低く、上目づかいでこちらを見る島崎は、知らない男に声を掛けられたからか、少し怪訝そうな表情を浮かべていた。
「島崎さんですよね?俺、間島さんの友人の柳浩平って言います」
 営業用の笑顔を浮かべながら、名刺を差し出す。
「舞花の……」
 気のせいだろうか?間島の名前を出した途端に、島崎の身体が強張った気がする。
「実は、今ある事件を追ってまして……よかったら、少し話を聞かせてもらえませんか?」
 あくまでフランクに話すことを徹する。相手は女の子、怖がられては聞き出せるものも聞き出せない。
「……あの、舞花、やっぱり何か事件に巻き込まれているんですか?」
「やっぱり……とは?」
「あの……えっと……」
 島崎は、周囲に目を泳がせて言い淀んだ。どうやら、ここでは言い辛い話らしい。
「もしよければ、場所を変えましょうか。出来れば大学内ではなく」
 そう提案すると、こちらを見ずに島崎はコクンと首を一回盾に振った。
 教室を出る時に、五条が座っていた方を見やると、もう起きて出て行ってしまったのか、五条の姿はどこにもなかった。

 大学を出て駅へ向かう途中にある、熟年夫婦が切り盛りする少し寂れた喫茶店。
 今時の学生は、駅に併設されている小洒落たオープンカフェに行くだろうと思い、地域に根付いた穴場の店をチョイスした。
「ホットコーヒー2つ」
 ご婦人の店員に注文してから、正面に座る島崎へと向き直る。
「すみませんね、学校終わりに」
「いえ……」
 まだ緊張しているのか、その瞳はテーブルの一点をずっと見つめたまま。なぜ、ここまで彼女が怯えているのか。
「早速だけど、本題に入っていいかな?」
 柳はテーブルの上に、事件の内容を簡単にまとめたノートを広げる。そこには、間島の顔写真、間島の交際相手の名前、間島に起きた異変がいつ頃から始まったものなのか、といった内容が、時系列に沿って事細かく記されている。
「この事件に、心当たりはありますか?」
 少し意地が悪い、アバウトな質問。しかし、島崎は首を縦に振って、交際相手の男の名前を指さした。
「この人は、私の兄なんです」
 柳は驚きのあまり、一瞬、反応が遅れてしまった。
「え……は、え?この男が?」
「はい……。島崎健太(しまざきけんた)。変わっていなければ、今は商社に勤めているはずです」
 どこか他人行儀で淡々と告げる島崎。
「今、お兄さんとは?」
「少し前から連絡が取れなくなっています」
伏せた瞳は、未だに何を考えているのか読み取れない。しかし、彼女はナニカを知っている。

「じゃあ、ずっと会っていなかったんですか?何で、君は事件の事を知っている?」
 一つ一つ、丁寧に質問しなければならないのに、不明な点が多すぎて、矢継ぎ早になってしまう。
「……半年前、家に兄から留守電があったんです。内容は舞花とのことについてでした」
「間島さん?」
「その頃には兄と舞花はもう付き合っていたみたいで。『近々、結婚する』という内容でした」
 なんと急展開過ぎる内容か。しかも、この時点では間島と健太の関係は、さほど悪くはなかったのだろうか。
「私も家族も、そこで初めて兄と舞花が付き合ってたことを知ったんです。舞花は何度か家に遊びに来たこともありましたし、舞花の事は家族も知っていました。その時に、兄とも会っていたかは正直覚えていないですが……」
 島崎は、ギュッと自分の手を握る。この先の話をするのが、怖いと言っているような動きだ。
「……大丈夫。ゆっくりで構わないので」
 できるだけゆっくり、島崎に声を掛けた。店内のBGMが、柳たちの声を、いい具合に外部からシャットアウトしてくれている。
「……兄は、舞花に、強姦まがいなことをしていたんです」
 突然、誰かに後ろから鈍器で殴られたような、重い衝撃が走ったように感じた。それほどまでに、普段聞きなれない言葉を、目の前の女の子は弱弱しく発する。
「様子がおかしいと気付き始めたのが確か一カ月くらい前で……。最初は私が気付きました。同じ授業を取った時に、服から少し痣が見えていて……。どうしたのって聞いても、何でもないの一点張りだったので、何か隠しているのは分かりました」
 島崎の声が、段々と震え始める。仕方ない。同じ女性が、しかも同級生が、血縁者に酷い目に合わされていたのだから。
「心配だったから、兄に聞いてみようと思って、兄が住んでいるマンションに行ってみたんです。そしたら……っ……微かにですけど、中から、泣き叫ぶ、舞花の声が聞こえて……」
 その時の事を思い出したのか、島崎は片方の手のひらを、自身の口元に当てがった。肩で息をして、苦しそうにしている。少し呼吸が浅くなっているようだ。
「落ち着いて、ゆっくり、深呼吸して」
 過度の緊張、心配、年頃の女の不安定な心には負荷が掛かりすぎたのだろう。
 島崎は一、二度、「すぅー、はぁー」と肩を動かしながら息を整える。
「……すみません、もう大丈夫です」
「こちらもすまない」
「いえ、どうにかしなければと、思っていたので」
 顔色こそ沈んでいたものの、その声にははっきりとした決意が見て取れる。自分がどうにかしなければ、と思っていたのだろうか。責任感が感じられる。
 だが、流石にこの状態でこれ以上島崎に話を聞くのは、体調面でも不安だ。
「今日はここまでにしましょう。せっかく時間を作ってくれたのに、すみません」
 柳が切り出すと、島崎は「でも」と食い下がった。しかし、その行動とは裏腹に、島崎が浮かべる表情には安堵が滲んでいる。恐らく、本人も自覚がないだろう。
「なるべくフラットな状態の話を聞きたいんです。体調が悪い時はどうしても悪い方向にしか考えが及ばなくなりますから」
 その考えは、半分本当で、半分は島崎を帰らせるための口実だ。島崎の立場からして、友達の間島を助けたいのか、家族の健太を助けたいのか、はたまた、この事件が公になってしまった際に被害が及ぶであろう、両親を助けたいのか。そこを追求しない限り、おそらく正確な聴取は出来ない。それを聞きだすには、島崎本人にも相当な心身の負荷を掛けざるを得なくなる。精神は、時として壊れやすい。少しでも心に余裕がある時の方がいい。
「では……」
 島崎はスッと立ち上がると、こちらに一礼して店を出ていく。
 すっかりぬるくなってしまったコーヒーをグイッと喉に流し込み、柳はノートPCを立ち上げた。

――――――――――――――――――――

「どーすっかな~~~」
 隠れ家カフェにてPCの前でうなだれている柳。 島崎と別れてからというもの、もう三時間が経過しようとしている。
(結局、俺は心霊現象を追っているんじゃなくて、他人の傷害事件に片足突っ込んでる感じだもんな……)
 編集長には「ちょっと大学生の話聞いてちょちょっと書いてくれたらいいから!」なんて言われていたもんだから、原稿を上げるのを長引かせたらなにかとまずい。サボっていると思われそうだ。それならいっそ、傷害事件としてネタを上げるか?でも、そうなってくると俺じゃなくてもっとベテランに話が行って、蚊帳の外になりそうだしな……。
 一人カフェでうなだれていると、突然、背後から声を掛けられた。
「お兄さん!今一人かい?」
 軽快な声が、辺りに響く。瞑っていた瞳を開けると、こちらを覗き見ている一人の男が視界を占領した。
「……え、誰?」
 自分よりもいくつか年下だろうか。奥二重の涼し気な目元をした男は、キョトンとした表情を浮かべたまま、こちらを見下ろしている。
「なんか疲れた顔してんな、アンタ」
 こちらの質問には答えず、マイペースに会話を進めていく。
「ちょっとお兄さん、今からカラダ、貸してくんない?」
 二ッと笑う目の前の男。いや、言っている意味が全く分からない。
「アンタ、柳さんでしょ?」
 急に本名を当てられ、思わずドキリと心臓が跳ねる。この男は、なぜ自分の名を知っているのか。
「ちょっとまて、なんで俺の名前……」
「お、当たりか」
 片方の口角を上げてニヤリと笑う男。誰かに似ている…。誰だか思い出せない。だが、確かに、既視感のある顔だ。
「こわ~い大人に頼まれてんだ」
「いや、だから君誰……」
「ほらお兄さん!荷物はこっちだよ~。返してほしけりゃ追ってきな」
 いつの間に手にしたのか、男が肩に背負っているのは、机の上に置いていた俺のリュックサック。あの中には、欠かせない仕事道具がぎっしり詰まっている。
「あ、おい返せ!」
 手を伸ばすも、男はひらりとその手を躱し、ついて来いと言わんばかりにステップを踏んでいる。身軽な男だ。前世は猿か?
 男は、柳の静止の声も聞かず、止まることなくカフェを出ていく。
 柳は、心の中で文句を言いながら、ポケットに入っていた小銭を数える。丁度、ギリギリコーヒー代が払えそうな金額だ。
「釣りはいいです!」
 チャリンと、テーブルの上に小銭を置いて、男の背を追いかけた。


――――――――――――――――――――


「到着!」
 かれこれ三十分程男を追いまわしたどり着いたのは、大学内にある『第三研究室』と書かれたプレートが下がっている扉の前だった。
「テメェ……覚えとけよ」
 柳はゼェゼェと肩を上下させながら、男の持っているリュックを奪い返した。一応中身も確認したが、盗られたものもなさそうだ。
「うわ、その確認、傷つくなー。別に金に困ってるとかじゃないよ」
「理由も言わずにリュックを奪われて、挙句の果てにこんなとこまで走らされたら、誰だって疑いたくもなるわ」
 五条もそうだが、この大学に来てからというもの、言葉足らずな奴が多すぎる。なんで最近の奴らは、ちゃんと起承転結で話をしないのか。社会人としてやっていけなくなるぞ。
「で?ここは?」
 目の前の男は先程、怖い大人に頼まれていると言っていた。もしかして、今回の事件と関係あるのか?
「誰かさんの住処だよ」
 そう言うと男は、ノックもせずに扉を開け、中へと入ってゆく。開けた扉から部屋を見渡した瞬間、自分の中の時間が止まった。そこには、つい数時間前まで一緒に授業を受けていた、男の姿があった。
「尊~お客さんだよ」
「……はぁ」
 ソファに座っている目の前の男は、ため息をついてこちらを見ずに欠伸をした。さっきまで眠っていたのか、隣には立派な毛布が無造作に置かれている。
「てか、大和は?」
「……知らん」
 五条とこの男は知り合いだろうか。五条の纏っている雰囲気が、いささか柔らかく見える。
「ていうか、なんでソイツいるんだ」
 五条はこちらも見ずに、淡々と言葉を告げる。先程話した事をすっかり忘れてしまったのだろうか。また距離感が最初に巻き戻ったような、突き放した話し方だ。
「ああ、大和に頼まれてさぁ」
「あ、そ」
 さして興味もなさげに、もう一度欠伸をしつつ、ソファに横になって寝る体制を整える五条。
「え、寝るの?」
「昨日徹夜なんだ」
「若いねぇ大学生」
「そうだねぇ、若いからちょっとくらい寝なくても大丈夫だろ。ほら、起きろ寝坊助」
 凛と通る声がすぐ後ろで聞こえてきた。振り返ると、そこには数冊のファイルを小脇に抱えた神田が、扉の入口に立っていた。
 先日と同じ、中性的な美しい姿に、口角を二ッと上げて、少し意地悪気な顔だ。
「……あ」
 やっと、既視感の正体が分かった。
「もしかして、神田さんの、弟とか?」
 そう柳が問いかけると、二つのよく似た顔に、板挟むように視線を向けられた。
「「正解」」
 飄々とした立ち居振る舞い、独特の雰囲気。神田のように中性的な見た目ではないものの、キリッと切れ長な奥二重の目元。総合的に見たら、この神田の弟も、かなり整った容姿をしている。
「禅(ぜん)です~よろしく」
 握手を求められ、反射的に思わず手を差し出してしまった。この毒気を抜けられる雰囲気は、確かに神田の血縁者だ。
「もう仲良くなったのかい?」
「仲良くなんてないですよ!コイツのおかげでマラソンランナーにでもなった気分だ」
「柳さん、結構体力あって感心したよ。どうだい?うちのマラソンチームに入らないかい?」
「マラソンやってんの?」
「まぁ、嘘だけど」
 軽妙な会話のテンポに、思わず乗せられてしまった。隣を見ると、このやり取りをニコニコと見つめる神田と、フル無視で訝し気な視線を向けている五条。そして反対側を向くと、これまた良い笑顔をした禅が、ピースサインをこちらに送っている。
「……なんなんだ」
「まぁまぁ、仲いい友人は多い方がいいだろう?学外交流も、盛んでいいねぇ」
 神田は奥にある自席に向かうと、ファイルをバン、とデスクに置いた。
「で?聞き込みの進捗はどうだったのかな?」
 にこやかな笑みで、神田はこちらに質問を投げかける。どうして、神田が取材をしたことを知っているのか。
「……なんの話っすか?」
「しらばっくれるなよ。島崎とかいう女学生に、話を聞いていたんだろう?」
 じっとりと、舐められるような視線を寄越す。まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が硬直する。隅々までお見通しだ、とでも言わんばかりだ。
「別に、今日は彼女の調子が悪かったんで、そんなに話さずに分かれましたよ」
 重要っぽい話は聞くことが出来たが、釈然とせずにぶっきらぼうに返答をしてしまう。
「嘘だな」
 しかし、柳の言葉に、黙ったままでいた五条が水を差した。
「彼女とは、もっと深いところまで話をしたはずだ」
 五条はソファの上に座ったまま、こちらを見ずにそう言い切る。
「なんでそんなことが分かるんだ?」
 平常心を装って言い返す。また、精霊がどうとか言うつもりか?
「お前、さっき授業で何の話を聞いていたんだ?人間が動揺したとき、そして何かを隠そうとするとき、大抵の人間は視線が左右どちらかの下にズレる。危機から逃れようと考えを巡らせるからだ。そして、普段よりも少し声を張り上げた。虚勢を張っている。何を隠している」
 そんな授業だっただろうか。しかも、五条は寝ていなかったのか?
「それに、お前についている霊は、お前に似て少々やかましいからな。隠し事出来ない質だろ。筒抜けだ」
 やっぱり、精霊うんぬんの話か。
「お前……だから同級生にも、変人扱いされるんだぞ……」
「僕は別にそれで構わない」
「それに、さっきちょっとツンケンした態度とるの反省してなかったか?あん時はよっぽど可愛げがあったのに……」
「寝たら忘れた」
 ……コノヤロウ。
「ふ……くく……あっはっはっは!」
 その一連のやり取りを見ていた神田は、吹き出すように大声を上げて笑った。
「いや、悪かったね。凄むような真似をして。別に取って食おうって訳じゃないから、安心しておくれ」
 さっきまでの威圧感は消え、いつもの神田の雰囲気が戻って来る。
「でも、君も関わってしまった以上、どのくらい情報を知っているのか、こちらも把握しておかなくてはいけなくて」
 そう言って、『持ち出し厳禁』と書かれた一冊のファイルを柳に手渡す。
「これは?」
「今回の心霊事件の調査資料さ」
 ペラッと一ページ目をめくり、発行先を確認してみる。
「内務省特殊事件執行課発行……はぁ?」
 予想もしていなかった文字を目の前に、思わず素っ頓狂な声が漏れる。内務省制度なんか、とっくの昔に廃止されているではないか。なんで、そんなところの資料がこんな大学なんかに……。
「それを見せるのか?」
「隠していても仕方がないだろう。それに、彼の情報を開示してもらわなきゃ、尊の推理が本当に正しいのか、検証できないだろう?」
「ちょっと待て、状況がいまいち理解できないんだが」
 こめかみを軽く押さえ、彼らの軽口を止める。まじで、一ミリたりとも状況が掴めない。
「つまり、この事件……もとい心霊現象を、我々は直々に依頼されているってことさ」
 神田は奥にあったホワイトボードを引っ張り出し、黒いマーカーで絵を書き始めた。
「簡単に説明しようか。君は、尊が変な力を持っていることはもう知っているだろう?その力を使って、妖怪退治をしてほしい、という依頼が、政府からやってくる」
 キュキュ、とペンが独特の音を鳴らしながらボードの上を滑ってゆく。まず一番上に書かれたのは、『内務省特殊事件執行課』の名前。その次に、『東京十社』、『五条家』、その下に『神田家』という文字が連なる。
「……神田の方が下なんですか?仕切ってるのは神田さんですよね?」
「私が大人だからこうなっているだけだよ」
 にっこりと笑って、また更に、その図の横に『神』という文字。そして更にその下には『妖怪』という文字が付け加えられた。
「昔話になるんだけれどね。約二千年ほど前、日本は一回滅びかけたことがあったんだ。ある悪い神様が、日本を乗っ取ろうと侵略してきてね。そして、人々はどんどん、その神に吸収されて行ってしまった。そこに、ピンチを聞きつけた『創世の神』が現れた。その悪い神を追い払う目的が一致して、『創世の神』は、ある契りを交す代わりに人々に力を授けた」
「……契り?」
「そこの話は、いずれ機会があれば話すとしようか。要するに、力を授かった者たちの子孫が私達で、その跡継ぎが尊ってことだね」
「はぁ」
 いまいち、ピンとこない。というか、そんなおとぎのような話、信じる方がどうかしてる。
「というか、俺別に五条の力をこの目で見たことないんで、まだ信じてるってわけじゃないんですけど」
「そうか、それもそうだね」
 神田はニコッと笑い、五条へ問いかける。
「じゃあ、尊。ちょっとみせてあげたら?これも何かの縁だし」
「嫌だ、面倒くさい。見世物じゃない」
 神田の問いに対し、心底嫌そうに即答する。見せるって、何をだ。
「それに、俺はコイツを関わらせるつもりはない。その資料も見せるな。ここで聞いたことは、口外もしなければ口出しもするな。忘れろ」
 ソファからのそのそと移動してきたかと思えば、矢継ぎ早にまくしたてられ、手に持っていたファイルを奪われそうになる。柳は咄嗟に、ファイルを持つ手に力を込めた。
「……なにしてるんだ、離せ」
「なんか、勝手に話を遮られて終わるのはムカつくわ」
「は?お前は部外者だろ」
「いーや、俺は間島に依頼されているんだ。彼女が関わっているんなら聞く権利くらいあるだろ」
 柳と五条は、お互いむっとした表情を浮かべて顔を付き合わせた。そんな二人を、神田達は物珍しそうに見つめている。
「……大和、俺、今初めて尊が年相応にみえてるんだけど」
「奇遇だね、禅。私もだ」
 そんな二人をギロリと睨んだ後、五条はため息を吐く。
「分かった。そこまで言うんだったら、これ以上はなにも言わない」
 やけにあっさりと引き下がる五条。その五条に違和感を覚えつつ、柳はほっと胸を撫で下ろす。
「その代わり、間島から聞いた情報、今現在掴んでいる事全てを話せ。そして今後、間島と会うときは、俺も同行させてもらう」
 ぴしゃりと言い放たれた交換条件。あまりにも横暴すぎる。これまで柳が掴んだ情報を引き渡せだと?
「嫌だね。これは俺が掴んできた情報だ。なんで何もしていないお前なんかに……」
「ほお?俺はあの公園で、頼まれてもいないのに無償でお前を助けてやったが?」
 口元を引き攣らせながら、五条はニヤリと笑う。誰も何も言わないのですっかり忘れていたが、確かにその通りだ。
「……お前、性格最悪だな」
「お前は、思った以上に甘いな。無償で助けてやるほど、俺は善意者ではないし、お人好しでもない」
 ツン、とした物言いが、何とも腹が立つ。
 しかし、助けてもらった事実は変えられない。
「……分かった。お前のことは気に入らないけど、手を組もう」
「は?誰が手を組むって?情報提供しろと言ったんだ。手を組むつもりはない」
 この男は……相変わらず、ああ言えばこう言う奴だな。
「はいはい、じゃあ、俺は俺で、お前はお前で。勝手にやるからついてきたければついてくる、っていうスタンスでオーケー?」
 降参したと言わんばかりに、柳は両手を上げて投げやりに発する。
「そうだな。そうしよう」
 手を組むことと、さほどやることは変わらなそうだが……?本当に、変わり者の感性はとことん分からない。
「じゃあ早速、持っている情報を話せ」
 どこまでも自分本位の五条にため息を吐きつつ、柳は事件の概要が知るされたノートを広げた。


――――――――――――――――――――


「あ、島崎さん。こっちこっち」
 翌日。
 柳は、早速島崎にアポイントを取った。大学とは離れた、少し閑静な通りにある個室カフェ。上品な内装の店に、大学の広大な敷地を歩くのに最適な、カジュアルな恰好をした島崎が足を踏み入れる。島崎は声をした方を振り向くと、少し驚きの表情を浮かべた。
 無理もない。声をかけた柳の横には、椅子に座り、偉そうに両腕を組んだ五条が座っているからだ。
「……どうも」
 席に近づき、島崎は会釈をする。その反応は当然の反応だ。と心の中で思いながらも、島崎に向かい側に座るよう催した。
「驚かせてしまってすみません。えーっと、知ってるかもしれないけど、こっちは五条。島崎さんと同じ大学に通ってる」
「ええ、知ってます。話したことはないですが……」
 ちらりと、島崎は五条の方に視線を向ける。物珍しいものでも見ているような、そう言った視線。しかも、ちょっと頬が赤みを帯びている。

 ……これは、二人きりにしてあげた方がいいのか?
「はじめまして。島崎茜(あかね)さん」
 当たり障りもなく、五条は挨拶をする。自分の名前を知っている五条に驚いたのか、島崎は目を丸くした。
「あ、は、はじめまして……」
一段と頬に赤みが増す。耳まで赤い。五条が女子たちの間で話題になっていることは何となく知ってはいたが、まさかここまでとは……。
「えと、じゃあ早速本題にはいろうか」
 気を取り直して、島崎に向き直る。島崎の目の前に、昨日見せたノートを広げた。
「昨日君は、間島さんとお兄さんが恋人関係にある。そして、間島さんは、お兄さんから強姦まがいのことをされたと言っていた。これは間違いない?」
 島崎は、柳の問いに、コクンと首を縦に振る。島崎の瞳は、置いてあるノートと柳、時々五条をちらりと盗み見ていたりして、なんだか忙しない。
「よかった。では、ここから先の話を、続けても良いかな?」
 その言葉に、一瞬動きが停止したものの、島崎は自ら口を開いた。
「……兄のことを、通報しようと思っていたんです」
「……なぜ?」
「これ以上、兄が女性に酷いことをしないために」
 ぐっと、言葉尻が強くなる。本当にそう思っている、正義感が垣間見えた。
「実のお兄さんだけど、大丈夫かい?」
「ええ……。これ以上、兄の事で両親が辛い目に合うのは……。兄とは、そんなに仲良くないですし」
「それは、少し違うな」
 島崎の言葉に、五条が口を挟む。
「え……」
「お前、何言って……」
 制しようとした柳の介入に構いもせず、五条は言葉を続ける。
「君が兄の事を通報しようとしたことは本当だと思う。だが、その理由はもっと別のものだ」
 五条が、真っすぐに島崎を見つめる。五条の瞳から逃れようと、島崎は五条から視線を逸らした。
「なんで……そう思うんですか」
 島崎は視線を逸らしたまま、五条の答えをじっと待つ。五条は抑揚のない声色で、その先の言葉を続けた。
「君が、兄を好いているからだ」
 一瞬、その場の時が停止する。柳は、五条が発した言葉の意味を必死に理解しようとしていた。だが、いくら考えたところで、五条の考えはさっぱり分からない。そもそも、どうしてそんな発想に至ったのか。
「やはりそうか」
 五条は、間島の返事を聞かぬまま、勝手に話を進めようとする。
「ちょ、待て。話が全っ然見えてこない」
 どういうことだ。確かに、五条には昨晩、柳が知っていることの全てを話した。その時、ただ五条は黙って聞いていただけだ。それが、なぜ翌日になって新事実が湧いて出てくるのか。
「お前は一体、なんの話をしているんだ?」
「事件の話をしている」
「それから、なんで島崎さんがお兄さんを好きだっていう結論に行きつくんだ」
「予想はしていた。だが、先程の無言によって、たった今確信に変わった」
「そう言うことじゃなくて、なんでそんな予想が出てくるんだよ。大体、兄妹だろ?」
「兄妹だからといって、恋愛感情がないと思うお前の方がどうかしている」
 ああ言ったらこう言う、そういう奴だ。
 島崎の方をちらりと横見見る。先程まで赤らんでいたその表情は、今度は顔面蒼白、といった表現がピッタリのように、酷く青白かった。
「……なんで」
 ぽそりと、島崎が呟く。
「僕には有力な情報提供者がいる。君も捜査対象者だったから、これまでの経緯を調べさせてもらった。……君は、お兄さんと随分仲が良い。それも、周囲が少し異常に思うほどに」
 五条の声のトーンが、一気に低くなる。
 一体、この兄妹に何が隠されていると言うのか。それ以上口が挟めず、柳はただじっと、島崎の次の一言を待った。
「……確かに、私は兄が好きです」
 俯かれたまま発せられた言葉。
 その声は、今まで怯えていた島崎のものとは思えないくらい、はっきりとした口調だった。
「兄と私は、ちゃんと血の繋がった兄妹です。両親は共働きで、幼いころから私の面倒は兄が見てくれていました。本当に、優しい兄だった。……でも、兄が高校に上がった時、知らない女を、兄の帰りを待つ私の元に連れてきたんです」
 まるでロボットが物語を語るように、島崎は抑揚のない声で話す。
「その時の兄は、普段私が見ているものとは違う、『男』の表情をしていました。こんな兄は知らない。『私』の兄ではない。でも、どうあがいても、私では、この兄の表情を引き出すことは出来ない。だから、私も『女』になるしかない、と思いました」
 島崎は、当時を思い出しているのか、時折窓の外を眺めながら、言葉を紡いでゆく。
「私が高校に上がったと同時に、兄が一人暮らしを始めました。当時は仕事で忙しかったので、兄も彼女がいなかった。だから、気兼ねなく兄の家に遊びに行っていたし、兄も快く迎えてくれた。……でも、両親は、そんな私を異常に見ていたんです」
 仲のいい兄妹、といったら聞こえはいいが、所詮男女だ。必要以上に一緒にいる二人を見て、両親が『そういう仲なのか』と疑った訳だ。
「兄が両親に責められて……。それから、兄は私と距離を置くようになりました。家に行っても上げてくれないし、次第に留守になることが多くなって……。でも、諦めきれなくて、両親に預けてあった合いカギをこっそり盗んで兄の部屋に忍び込んだんです」
 初めて他人に話す、自分だけの秘め事。その高揚感からか、次第に間島の表情は緩み、饒舌になってゆく。まるで、危ない薬を服用して間もない時のような、そんな感覚だ。
「驚いて、そして笑いかけてほしかった。クローゼットに隠れて、そんな兄の表情を思い出していました。でも、帰りを待ちわびた私の目の前に飛び込んできたのは、仕事帰りのスーツ姿の兄と、学生服の女の子」
 自嘲気味に笑う島崎。彼女は、その先の二人の『営み』を、一部始終見てしまった。
「でも、全てが終わった後、兄はその女の子にお金を渡していたんです。だから、胸のしこりは残らなかった。『兄は、私と引き裂かれてしまったから、私が恋しくて、同じ年頃の女の子と、いかがわしいことをしているんだ」って、本気でそう思ったんです。そう解釈したら、なんだか嬉しくなりました。兄がこうなってしまったのは仕方がない。私たちが兄妹だったから、兄は道を踏み外してしまった」
 柳は、ごくりと生唾を飲み込んだ。からっからに乾いた口には、少量の唾液しか残っていなくて、飲み込む瞬間は、やけに喉が痛かった。
「私が高校を卒業するまで、兄は女子高生を買い続けていました。でも、毎回違う女の子。それまでは、どんなに可愛い子が相手でも、私は平気でした。まだ兄の心が私にあるんだって、嬉しかった。でも、大学に上がって暫くして、舞花が兄のマンションを尋ねてきた」
 島崎の声のトーンが、一気に下がった。憎むという感情すら生まれない、これは、虚無だ。
「私が高校を卒業して、今度は大学生をターゲットにしたのかなって。その第一号が舞花だったのかと思いました。でも、そうじゃなかった。……何日たっても、毎週同じ時間に、舞花が来るんです」
 高揚し喋っていた彼女はどこへ行ってしまったのか。今度は、目尻に涙を浮かべた間島が、膝の上で固く握りこぶしを作りながら、声を震わせて話す。
「とうとう、兄に彼女が出来てしまった。しかも、幼馴染が。舞花のことは兄も昔から知っていました……。悔しかった。舞花も、兄とのことを私に何も言わなくて。だから、舞花を許せなくて距離を取るようになりました。……そこで、ある事件が起きました」
 島崎は、握っていたこぶしを緩めて、爪が喰い込み赤くなっている手のひらを、ただじっと見つめている。
「その日も、私は兄が帰って来るのを、影から眺めていました。いつも通り、兄と舞花が帰ってきた。でも、いつもと違ったのは、舞花を引きずるようにして歩く兄と、舞花が泣いていた事。その瞬間、兄が舞花に暴力をふるいました。家の前で、二発」
 淡々と、しかし、はっきりと言葉を繋ぐ島崎。
「二人が家に入った後、兄の家の前で聞き耳を立てていたんです。そしたら、泣いている舞花の悲鳴と、兄の怒鳴り声が聞こえて……」
 島崎は、これまで一口も口を付けていなかった水を一気に飲み干す。
 静かに話を聞いていた五条は、島崎が水を飲み干すのを待った後、言葉を発した。
「……それで、兄が怖くなった?」
 その五条の問いかけに、島崎は静かに頷いた。
「兄が連れてくる女たちに、君は自己投影していた。だから、間島が殴られたのは、君も殴られたと同じこと」
 なんて精神力だ。自分ではない女に自分を重ね、兄に思いを馳せる。とても尋常ではない。
「だから、これ以上自分が傷つかないためにも、兄を通報しようとした」
 五条の解釈に島崎は同意の意を示した。これが、今回の事件の概要だ。
「……協力ありがとう。感謝する」
 五条は、もう用はないと言わんばかりに、ガタッと席を立つ。
「これで、兄は楽になれるんですね」
 島崎が心底ほっとしたような表情を浮かべる。最近は全然心が休まっていなかったのか、安堵の息を漏らした。だが、そんな島崎を見て、五条は怪訝な表情を浮かべた。
「は?何で僕が、君の兄を助けなければならない?」
 あまりに非情すぎる五条の言葉を受け、島崎はキョトンとした表情を浮かべた。
「僕はあくまで間島の事を調べていたんだ。君たち兄妹がどうなろうと知ったことではない。兄をどうこうしたいなら、自力で何とかしろ」
 あれだけ図太く聞いておいて、鬼かこいつは。
「ちょ……島崎さんは協力者だ。少しは助けてやってもいいだろ」
「言ったよな、僕は善意者でもお人好しでもない。それに、自業自得だ。それでも可哀想と思うのであれば、お前が助けてやれ」
 そう言って、店を出て行ってしまった。
 取り残された柳は、気まずさに顔を歪める。
「……えーと、とりあえず、ありがとう……。よかったら、傷害事件に詳しい、腕のいい記者でも紹介しようか?」
 ちらりと、島崎の様子を伺うと、今にも泣きそうな面を浮かべている。
(あの野郎……覚えとけよ……!)
 柳は何とか島崎を宥め、腕利きの記者の連絡先と、お茶代を置いてその場を後にした。


―――――――――――――――――――――

「疲れた……」
 ドサ……と、ベッドに深く身体を沈める。
 いつも通りの就寝時間だというものの、一向に眠くなる気配がない。目を閉じると、昼間起きた出来事が、走馬灯のように頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
「……ちょっと散歩でもするか」
 軽くスエットにジャケットを羽織る形で外へと出る。
 まだ秋口だというのに、息を吐くと白い水蒸気が空へ向かって浮かんでいく。隣の家の庭からふわりと香る金木犀の生々しい香りが、勝手に頭の中に男の顔を浮かばせてきた。
 ……全く、嫌な奴と知り合ってしまったものだ。
 ボーッとしながら道を進んでいくと、見慣れた姿が五十メートル先辺りを通り過ぎて行った。あの姿は……間島だ。
 ふらふらと、どこへ向かっているのか。
 恐怖心と共に、好奇心が湧き上がってくる。昼間の一件もあったのだ。まだ彼女の姿を見ただけで、あの恐怖が湧き上がってくる。間島の姿を追うなと、心が叫んでいるのが分かる。足が、地面にべたりとついて動かないような、そんな感覚だ。だが、それと共に、早く動かないと間島の姿を見失ってしまう、というはやる気持ちも同時に沸き起こってきた。
 俺は、記者だ。好奇心には、どうあがいても勝てやしない。
 柳は、本能が鳴らしている警告を振り切り、鉛のように重い足を動かした。
 間島を追い歩いてきたのは、とても立派な神社だった。
 都内にはいたるところに神社が立てられているが、こうも立派なのはなかなか見ない。というか、東京に生まれ、東京で育ってきたにも関わらず、柳はこの神社の存在を知らなかった。
 入り口で赤く大きな鳥居に出迎えられたかと思えば、ごつごつとした石畳が、所狭しと並べられている。その石畳を少し進むと、川のせせらぎが聞こえてきた。今は暗くて川の中は見えないが、鯉でも泳いでいるのではないかというほどに立派な川だ。川の上には橋が掛けられており、その橋を渡りきると、今度は風神・雷神が出迎える。
「すご……」
 思わず、声が漏れた。
 ライトアップもなにも為されていないのにも関わらず、その存在感に圧倒する。
 風神・雷神を通り過ぎると、いよいよ本殿が見えてくる。本殿を前にすると、自分の存在がちっぽけに思えるほどだ。
「なにをしている?」
 ボーッと眺めていると、もはや聞きなれた声が聞こえてきた。
「……それはこっちのセリフだよ」
 うんざりとした顔を、わざと向ける。なぜこうも、苦手な人物と何度も鉢合わせしなければならないのか。
「意外だな。お前がストーカー気質だとは思わなかった。しかも、ド深夜に勝手に人様の家に上がり込んでくるとは」
 本当に感心した、とでも言わんばかりのトーンで話しかけてくる。
 この男……。どう育てば、こんなに人の神経を逆なでするような無神経野郎に育つのか。
「五条……何でお前がいるのか、俺が聞きたいんだが」
 お前こそ、俺の行くとこ行くとこで出てきやがって、ストーカーではないか。
「ここは、僕の家だ」
「……は?」
 一瞬、思考が停止する。
 ここは、ぼくの、いえだ?
 頭でも打ったか、この男。
「お前、表の石表札も見ずにここまで来たのか?」
 五条は、やれやれ、と言わんばかりのため息を吐く。
 暗がりの中、側に立てられていた表札を確認する。
「……『五条神社』」
 そう言葉に出したところで、ようやく全て理解した。以前、五条が神社で間島の姿を見たというのも、その神社が五条の家だったからだろう。そして、五条神社と言えば、東京十社に名を連ねている、言わずと知れた有名な神社だ。それが、こんなところに建造されていたとは。
「……俺は間島を追いかけてここまできたんだ」
「やっぱりストーカーじゃないか」
「違う!」
 いや、厳密に言ってしまうとそうなってしまうのだが、だがしかし、断じてそんなつもりで付けてきたのではない。
「まぁ、お前がストーカーか否かなんてどうでもいい」
 そっちが先にけしかけてきたんだろうが!
 と思ったが、これ以上言い争うのは時間の無駄だと思い、言葉を噤んだ。
「間島をこの時間に呼び寄せたのは僕だ」
 そう言い、五条は本殿を背に、スタスタと歩みを進めていく。
「おい、どこ行くんだ?」
「間島のところ」
 五条は、そう言ったきり、足を止める気配はない。仕方なく、五条の後ろをついていくことにした。

――――――――――――――――――――

 五条に案内された場所は、本殿を出て右に進んだ所にある、摂社の前だった。側に立てられている表札を見る。そこには、消えかけのインクで『神田神社』という文字が書かれていた。
(神田……?)
 似たような名前を知っている。まさか、関係があるのだろうか。
 薄暗く、不気味な闇が目の前に広がっているようだった。全く明かりが灯っていないのは本殿も同じだが、なんというか、摂社のほうは"虚無"という表現がピッタリだった。本当に、神様が宿っているのかすら怪しい。
 その入口に、間島は立っている。
「間島さん」
 柳の呼びかけに、間島はピクリとも動かない。
「無駄だ。本人は眠っている」
 五条は、いつも言葉が足りない。
「眠っているだって?馬鹿言え、間島さんはちゃんと立ってそこにいるじゃないか」
 そう反論すると、五条は深くため息を吐き、「馬鹿なのか?」と零した。
 本当にコイツは、一言多い。
「本人の精神は眠っている。今ここに立っていることすら、当の本人は自覚がない」
 ますます話が分からなくなってきた。では、ここに立っている間島の意思ではないのか。
「……今、俺たちが見ているのは、間島の身体を借りた、産女だ」
 そう五条が言葉を紡いだ瞬間、真っすぐに前を向いていた間島の首がこちらを見つめてきた。間島の顔なのに、まるで生気が感じられないように、青白い。
 いつか見た間島の姿と重なり、思わず身が震えた。
「言っておくが、僕がお前を助ける義理なんて一つもないからな」
 隣で五条が、酷くそっけないことを言ってくる。
「は、はぁ!?お前、ここにきてそういうこと言う!?」
 柳が恐怖しているのは五条も知っているはずなのに、この男は鬼か。
「別に、付いてきたのは君の勝手だろう。僕はただ、君がいた方が産女が姿を現しやすいと思っただけだ」
 いけしゃあしゃあと告げる五条。完全に人質ではないか。
「なんで俺が産女の怒りを買っているんだ!」
「本当に君は想像力が乏しいな。間島は、男に暴力をふるわれていた。そして、避妊をしてくれないことを悩んでいた。そこを産女に付け込まれ、憑依された。そこへ、君が彼女と産女の前に姿を現した。仲良く肩を並べてね。……産女が勘違いしそうな描写だと思わないか?」
 思わない。断じて思わない。もしそれが本当なら、今すぐ産女と名乗る妖怪とやらに、弁明しに行きたい。
「まぁ、どの道、今日、ここで、僕は産女を祓うんだ。君は邪魔をしないところに居てくれればいい」
 五条がそう言うと、突然、間島が唸り声を上げ始めた。正確に言えば、間島に憑いている産女が、五条と柳の存在に反応している。
「やはり、お前が起爆剤だったな」
 そう言うと、五条は懐から鈴なりを取り出した。
 シャリン……と、綺麗な音色が辺りに響く。その音色を聞いていると、不思議と心が穏やかになるような錯覚を覚えた。
「おお、君もいたのか」
 どこからともなく、昼間よく聞いた、凛とした声が聞こえてきた。
 中性的な美しい顔が、柳の横に並んだ。
「まさか、君がいるなんて思わなかったな。尊に誘われたのかい?」
「神田、さん」
「君は本当に、この事件に好かれているようだね。嗅覚がいい。君は将来、優秀な記者になれるよ」
 神田はそう言いながら、視線を五条の方へと寄越す。
 五条は、間島と対峙しながら、美しい鈴をまた一振りし、音を鳴らした。
「一般の人は除霊、と言うのかな?でも、尊の除霊は少々複雑でね」
 先程までの穏やかな表情は消え失せ、神田はふう、と息を吐きながら、目の前の様子を伺っている。
「あまり、見ない方が君の為にはいいかもね」
 そう言って神田は、五条たちの前に歩み寄っていった。

――――――――――――――――――――

「……遅い」
 五条は、横目でジロリと神田を睨んだ。
「いやぁ、悪い悪い。ちょっと前に来ていたんだけど、珍しい子猫が迷い込んでいたもんだから」
 神田はちらりと、柳がいる方角を見やる。
「尊が連れてきたのかい?」
「馬鹿言え。勝手に間島に付いてきたんだ」
「にしては、随分とこき使ったみたいじゃないか?」
「使えるもんは使う。実際、産女も食いついてきた」
「本当、人使いが荒いねお前は。大学入ってから何人友人が出来た?」
「……今それ関係ないだろ」
 五条は鈴を鳴らしながら、苛立ちを隠さずに言ってのける。そんな五条の姿を、神田はクスクスと笑い、そして神田も懐から札を取り出した。
「始めるよ。今回は敷地の中だからそんなに強い結界張らなくていいと思うけど、時間はあまり掛けないこと」
 神田が人間とは思えない脚力で、地面を蹴って空へ飛び上がる。そして五条と産女を囲うように、周辺の四隅に札を落とした。
 次の瞬間、中に取り残された二人の姿が、透けて見えなくなってゆく。
「な……なんだ!?」
 明らかに、人間技ではない。

 不思議な帳を落とした神田は、ふわふわと宙を浮いている。
「あれ?柳さんじゃん」
 これまた飄々とした声が聞こえてくる。振り返ると、今度は禅が、ひらひらと片手を振りながら歩いてきた。柳は禅に急いで駆け寄る。
「なんだ!?今のは!」
 脈絡もないアバウトな質問を、間髪入れずに投げかける。
 禅は、一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、やがて理解したのか「ああ」と言葉を漏らしてまたにこやかな笑みを浮かべた。
「尊と大和は何も言わずに始めちゃったのかい?」
 クスクスと笑いながら、二人の方角を指さす。
「結界を張ったんだよ。尊と産女だけの空間に。万が一、尊が失敗したときに、産女が暴れて外に被害が出ないようにね」
 軽くそう言ってのけるが、実際はそんなに軽い事柄じゃないらしい。にこやかに薄められた瞳を戻して急に真剣な表情を浮かべた禅は、静かに結界へと視線を向けた。
「でも、何が起きるか分からないからね。柳さんも、俺の側を離れないほうがいいよ」
 柳は生唾を呑み込み、禅と同じように、五条と産女を閉じ込めた結界の中を見据えた。

――――――――――――――――――――

 目を開けると、辺りは真っ暗だった。
 一瞬の記憶の混濁の後、ここは間島の精神世界の中だと理解する。
(状況確認……。前後左右は暗闇。人は……)
 意識を集中させたところで、子守歌が聞こえてきた。真っ暗な闇の中、声のする方へ足を進める。
 何歩、歩みを進めただろうか。真っ暗闇の中に小さな光が灯っていた。近づいてゆくと、次第に光も大きくなってゆく。
「……だれ?」
 光の中心にいる女が、尊の存在に気付く。
「……間島舞花」
 五条は、光の中にいる女の名前を発した。間島の腕には、生まれて間もない赤ん坊が抱かれている。その赤ん坊は、どこか間島に似ている気がした。
「……こんなところで、何をしている?」
 尊は、ゆっくりと間島に問いかける。間島は、瞬きを繰り返した後、赤ん坊へと視線を戻した。
「……女の人がね、この子を置いて行っちゃったの」
 ポツリと、呟いた間島。
「女?」
「真っ白な着物を着た女の人。私にこの子を抱かせて、どこかに行っちゃった」
 そう言うと、再び、子守歌を歌い出す間島。赤ん坊はすやすやと腕の中で眠っている。
 その光景を眺めていると、闇の中から何かが近づいてくる気配を感じた。五条は警戒態勢を取り、気配の方向を向いて間合いを計る。
「……誰だ」
 五条の発した言葉と共に、暗闇から、純白の着物を着た女が姿を現した。恐らくこの女が産女だ。しかし、伝承で伝えられている、赤く血塗られた着物を着た醜い妖怪の姿とはほど遠い、とても美しい出で立ちをした女性だった。
「産女……」
 五条の声に反応して、産女が顔を上げる。産女は、静かに涙を流していた。
 産女の目線の先は、赤ん坊を抱いている間島だ。
「ずっとね、こうなの。ちょっと距離を置いて、こっちを見てる。時々、ふらっとここから居なくなっちゃうんだけど、また戻ってきて、ずっと見守ってる」
 どこか悲しそうに、間島は言った。
「そうか……」 
 おかしい。不思議だ。五条がこの空間に現れても、産女は敵意を示さない。てっきり、男を排除しようとしているのかと思っていたが、そうではないのか?
 ふと、間島の腹部に、光を感じた。どこからか、うっすらと息吹くような心地よい風が吹く。
「……?」
 間島の方を見ると、丁度赤ん坊が泣き出す。
「わ、どうしたの?よしよし」
必死にあやすものの、一向に赤ん坊は泣き止む様子はない。その時、産女が、ヒタヒタと間島に近づいた。
「っ……動くな」
 五条は、懐から札を取り出し、産女に突き立てる。しかし、産女はそれに動じることなく、間島に近づいてゆく。
 産女に敵意は感じられないが、念には念をいれて、五条は間島の側に寄った。
 そっと、産女は間島に目線を合わせて、子供を自分の腕に引き取る。すると、間島の腹部に宿っていた光は、次第に小さくなって消えてしまった。
「……もしかして、産女はずっとこうなのか?」
「うん……。もう何度目かも忘れちゃうくらい」
 そうか。そういうことか。
 五条は、小さく口元に微笑みを浮かべた後、真っすぐに産女を見据えた。
「……ずっと、守ってくれてたんだな」
 産女は、その五条の言葉に、泣きながら静かに頷いた。
「君は、まだ子供を望んでいない」
「え……」
「それを、産女は知っていた」
 避妊もせずに性行為へ及んでいた島崎健太。それを、強く抵抗できずにいた間島。産女は、間島の思いに自分を重ねた。望んでいない妊娠が、どれほど辛いものか。産女もまた、生前は望まない妊娠を強いられていたのかもしれない。しかし、同時に子供を慈しむ心を持っている。なんとも矛盾した感情。自分と同じ境遇の間島に重ねて、島崎健太の非道な行為によって生まれる惨劇から、間島を守っていた。望まない、悲しい出産を間島にさせないために、子のために、望まれない子供を増やさないために。
「産女が居なかったら、君はとっくに間島健斗との子供を妊娠していた」
 驚きを隠せない様子の間島。しかし、彼女は微笑みを浮かべ、産女を真っすぐに見据えた。
「……私ね、夢があるの。夢を見る子を応援すること。私がなりたかったものは、マネージャーなの。私が前に出るんじゃなくて、前に出たいって子を全力で応援したい。だから、まだ子供は嫌だって健太に言ったんだけど、聞いてもらえなかった」
 悲し気に、しかし穏やかに言葉を重ねる間島。そんな間島を、産女は子供を抱きながら見守っている。
「だから、守ってくれてありがとう。アナタに守ってもらってなかったら、私今頃、憎みながら子供を生んでいたかもしれない」
 間島は、満面の笑みで産女を見つめ返す。初めて会った時の間島からは想像もつかない、人の心を太陽のように温かくするような、なんとも穏やかで優しい笑顔。
 産女は、ふわりと笑みを浮かべた後、口元を動かした。
 五条は一瞬目を見張った後、悲し気な微笑みを浮かべた。
「……いいのか?」
 五条の問いかけに、産女はコクンと首を縦に振る。
「分かった」
 五条は懐から神楽鈴を取り出し、顔の前で一振り、二振り揺らした。
 すると、五条の足元に金色に光り輝く五芒星の陣が出現し、それと同時に現れた光の玉が、ふわふわと舞うように五条の周りを浮遊する。
「『汝、心優しき産女の妖よ、腕に抱く子と共に、安らかに眠れ』」
 五条の声が、辺りにこだまする。光の玉は産女を包み込み、そして消滅へと誘ってゆく。
「……元気で」
 涙ながらの間島の言葉と共に、産女は静かに姿を消した。


――――――――――――――――――――

「……もう君の精神世界から出ないと」
 長くここに留まっていては、現世に帰れなくなってしまう。もうすぐ夜が明けて、間島が眠りから冷めてしまう。脳が完全に覚醒してしまえば五条は間島の精神世界に取り残されてしまうのだ。
「……最後、産女さんはなんて言ったんだろう」
 静かに涙を流しながら、独り言のように間島は呟く。
「『ありがとう』って」
「え」
「産女も、子をあやしてくれていて、ありがとうと言っていた」
「……そっか。ふふ、ありがとう」
 五条の言葉に、間島はふわりと笑みを零した。
 間島の身体に異変が起きている時は、産女が間島の人格に介入している時だった。公園で起きた、柳の一件がそれだ。だがそれは、間島の危険を周囲に知らせる為でもあり、同時に、自分自身の成仏の為でもあった。
 産女は、五条を呼んでいたのだ。自身を成仏させるために。
 時が迫っているのか、徐々に薄れゆく五条の身体。
「行っちゃうんだね」
「ああ、君の中に取り残されたんじゃたまったもんじゃない」
「また会えるかな」
「会っても、話すことはないだろうが」
 普段通り、五条は酷く冷たく返答する。
「だが」
顔だけ背後を見て、五条がふっと微笑んで見せた。
「お前のことを、心から助けようとした男には、ちゃんと礼を言った方がいい」


――――――――――――――――――――


 数週間後。
 週刊誌の記事一面に、ゴシップ記事が掲載された。
「……『有名商社勤めの社員、売春に明け暮れか』……」
 記事を目にするたび、心が痛む。おかしいな、こういう仕事に憧れて、この業界に片足突っ込んだつもりだったのに。
 柳は、もう何度目かも分からないため息を吐いた。
「うるっさ。ため息やめてよね」
「いてっ」
 バシッと、頭に鈍痛が走る。痛んだ頭をさすりながら頭上を見ると、爪を赤で塗りたくり、スーツに身を包んだ女性が立っていた。
「……なにするんだ」
「なにするんだ、じゃない。なに落ち込んでんのよ」
「別に落ち込んでなんか……ていうか、会うたびに思うけど、立ち直り早すぎんだろ」
「私は元々こういう性格なの」
 今、柳の目の前にいるのは、強姦被害にあっていた間島舞花だ。パンツスーツが、余計に彼女の美しいスタイルを更に引き立たせている。
「全快した途端に気が強くなっちゃって」
「そういう浩平は、案外頼りなかったのね」
「な……なんだと!」
 クスクスと笑う間島。そんな彼女の笑顔に、不覚にもドキッとしてしまう。
「嘘嘘。ちゃーんと格好良かったわよ」
「だろ?……まぁ、アイツがいてこそだったけどな」
 柳は、遠くを見つめるように空を仰いだ。
 あれから、五条の姿を見ていない。正確には、会わないことにした。これは、五条たっての希望だった。

事件終了後、翌日———

「え……もう会えないってどういうことですか?」
「すまないね。尊本人の希望だから」
 事件が終わり、五条がこちらの世界へと帰ってきた翌日。
 柳は、まだ寝込んでいるという五条の見舞いをしに五条神社へ訪れたが、面会すらさせてもらえなかった。
 今は訪問してきた柳に、神田が五条の近況を説明してくれている。
「あの後、少し意識はあったんだけど、今は眠ったままなんだ。こうなると、いつ起きるか分からなくてね。なにせ、あの能力は相当な負荷が身体にかかるから、回復までに時間を有する」
 ま、一週間くらい目覚めないなんてこともザラだよ。と、場を明るくするように笑う神田。
「じゃあ、起きたら連絡ください。一言、礼が言いたいんで」
「それは出来ないな」
「何でですか?」
 なおも食い下がる柳に、一瞬神田は渋い表情を向けた後、またニコッと笑った。
「……したくてもね、出来ないんだ。恐らく尊は、君の事を覚えていないだろうから」
「……え?」
 唐突に出された答え。一気に心の距離をとられたように、神田を遠くに感じた。
「覚えてないって……」
「尊には不思議な力がある。だが、それは無尽蔵に使えるものではない。リスクが伴っているんだ。そしてそのリスクっていうのが、『睡眠時間分だけ、他者と関わった全ての記憶が消える』こと」
「記憶が……消える?」
 五条と出会ったのは三日前。つまり、これから最低でも三日間目覚めなければ、五条は柳の事を忘れてしまうのだという。
「尊はこのリスクのせいで、ろくに寝ないことが多い。寝てしまえば、関わっている事柄、人、全てを忘れて物事は振り出しに戻ってしまうからね。……三日間、眠れないというのは随分酷なものだ」
 伏し目がちに神田は言う。まるで自分自身に苦通を強いているみたいに。
「だから尊は、人との関りを極限まで抑えて、一人で生きている。……ごめんね。君たちが、尊のよき理解者になってくれることを祈るよ」
 神田は、寂しそうに、しかし、ふわりとした笑顔を向けて、柳に片手を差し出した。
 これ以上は、何も聞くな。だが、尊のことは、忘れないでやってくれ。
 暗に、そう言われいている気がした。
「……神田さん、本当はどっちなんです?」
「ふふ……どっちでもいいだろう?」
 柳はその手を取り、明るく軽口を言って、その場を後にした。
――――――――――

「はぁ、結局五条君にお礼の一つも言えずじまいか」
 柳が座るベンチに間島も腰掛けて、同じく空を見上げる。
 雲一つない晴天、という言葉がぴったりの、とても綺麗な青空だ。
「舞花はいいじゃん。あっちの世界で礼が言えたんだろ?」
「いいわけないでしょ。ていうか、あれは半分産女さんだし」
 間島はぷくっと頬を膨らまして、こちらを睨みつける。
 大層な美人だが、すねた顔は可愛らしい。柳は、不覚にもドキッとしてしまう。
「とりあえず、浩平はさっさと次の依頼に行く!芸能案件だっていうから、私も同行するためにスーツで来たんだから」
 そう。あれから俺は、前回の記事で高い評価を受け、こうして花形の芸能案件の取材を手にすることが出来た。今回は、『若手女優の政界進出について』という案件だ。学生でこの手の話題に携われるのは極めて異例だと、編集長が教えてくれた。
「分かってるよ。だからわざわざ迎えに来てやったんだろ……あ」
 ふと、懐かしい香りが鼻孔をくすぐる。艶めかしい、金木犀の香り。
 香りのする方向を見ると、間島の延長線上に、懐かしい人影を捉えた。
 パーカーのフードを目深に被り、フードから垣間見える瞳を、黒く長い前髪が覆い隠してしまっている。背丈は百七十五センチ程度。猫背気味だから、しゃんと立てば百八十はあるかもしれない。フードを目深に被っているため表情はよく見えないが、やけに静かな佇まいだ。ただ、落ち着いている、という言葉では片づけられないような、凪いでいるような感覚。
「アイツ……」
 見慣れた姿は、バイクに跨ってさっさと走り出そうとしていた。一瞬、こちらに顔を向けた気がする。思わずどきりと心臓が跳ねるものの、そのままふいっと視線を逸らされ、バイクでどこかへ走り去ってしまった。
「あれ……五条君だね。もう回復したんだ」
 隣で間島が、安心したような声を出す。
 まだ胸に開いた隙間のようなものは埋まりそうにないけれど、それでも、ここで姿を見れてよかった。
「……よし!今度は忘れられないようにデカいスクープ持っていってやるからな」
「それ、何日五条君を寝かせないつもり?」
「あ、それもそうか。まぁでも、一カ月くらい毎日顔つき合せてたら、どんだけ寝ても忘れられないようになるだろ」
「うわ、私でも苦痛」
「おい、どういう意味だ」

『ウブメの揺り籠』END


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