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観光客であれ、誤配を楽しめ -観光と建築-

私は鎌倉や湘南エリアから比較的近い地域で生まれ育った。なので小さい頃からこれら二つの地域に訪れることが多かったのだが、大学生になってその経験が自分の建築観に少なからず影響を与えているような気がしてきている。

まず、建築分野で興味のある概念が「コンセプト」だ。まるでそれが当然有効であるかのように教えられるが、その感覚と乖離があった。観光地での経験を通過していると、コンセプトというものは幻想にすぎないと思えるからだ。

実際様々な地域の様々な建築を見たが、言説ほど大きな影響を持っている建築は少ないように思えた。背伸びした言葉で建築を飾り立て、言葉で塗り固められた建築を見ても少しも感動しないし、その背伸びに付き合おうとも思えない。そうなるともはや建築は観光的な見方しかできない。観光客の気まぐれなまなざしに曝す他に、建築と対等な位置で語り合う術がなくなってしまう。

とても失礼な言い方で恐縮だが、しかし建築に親しみのない一般人からすれば感想を持ちにくいのは事実ではないだろうか。この感覚が大学入学当時から常に付いて回っていて、かつその声を無視することができなかったのだ。

まだ10年も学んでいないのに知った気になるのは違うと分かってはいるが、論理と空間の接続が見えにくい建築にやるせなさを感じていた。一般人としての私は安藤忠雄や世界のタンゲのダイナミクスを求めているのだ。無論この二人が論理的でないということではない。そこに見ているのは、建築が元気だった頃の旺盛なエネルギーだ。そのエネルギーが大切なのだ。

もっと建築は普遍的に、乱暴に言えば「俗っぽく」あるべきだ。誰から見ても分かりやすいが、そこに現代における一定の批評性を獲得するにはどうすればいいのか。それが今の私の建築における課題である。それについて考えたことを共有できればと思う。


コンセプトへの疑念

コンセプトというものが様々なリサーチの結果、あたかも客観的なものであるとして提出されるが、そもそもその見方に疑いがある。

客観性は正義なのか?どうしたって何かを見落とすことはあるし、リサーチの集積はその場所を完全に正しく記述したことにはならないのではないか?にも関わらず、それが正解であるかのように表現することには問題があるのではないか?というのが今の私の見方だ。

要はコンセプトをその地域というものを語りやすくするための道具であると定義しているのだが、そのような見方から捉えたコンセプトは必ずしも正解を導き出すものではなく、それどころか時にその場所の見方を偏ったものにしてしまうという危険をも孕んでいるのだと言いたい。それは誠実な建ち方ではないのではないか。

そうした不純な建築の建ち方をするのは観光地も同じである。そこには必ず「観光地的な」ウケ狙いのロジックがあり、コンセプチュアルな建築はそれと何が違うのだろうかと疑問に思うのだ。しかし、コンセプチュアルであることが必ずしも問題だとは思わない。問題の本質はその用法にあると思っている。

その問題の本質とは「偽物であるという可能性を巧妙に隠し通そうとすること」である。その態度が透けて見えるような建ち方には問題がある。そのような態度で建築を語るならばいっそのこと「ウケ狙い」の観光地的建築の方が素直だしよっぽどマシである。

中途半端にまじめな=リサーチに基づくコンセプチュアルな建築を志向したところで、コンセプトが持つ一種の「ふまじめさ」=「巧妙に偽装すること」によってその実体が歪められてしまうのではないか。その疑念が拭い去れない。

かといって昨今流行りのワークショップ形式でその地域の要求に忠実になることはこの問題に回答を与えているわけではないと思う。建築を構築するにあたっての出発点がそもそも異なる。
一旦流れに身を任せてみることで見える景色もあるのだとは思うが、そのように諭されてもどうにもすっきりしない。やっぱり建築家主導で建築を構築することの問題に立ち向かいたいのだと思う。

コンセプトを貫いて意固地になることも、ワークショップで流れに任せつつ要所要所でコントロールすることもうまく消化できない。
こうした両極端な姿勢が、レム・コールハースが『S,M,L,XL』の冒頭で「建築とは全能と不能の危険な化合物である(Architecture is a hazardous mixture of omnipotence and impotence)」と書いたことと重なって心地が悪い。建築家が主導となって世界を創っていくべきだという姿勢と、社会に都度適応すべきだという姿勢が同居し、分裂している。この気持ち悪さを卒業設計で取り払いたい。これはそれに向けた雑記である。


観光地=大衆の宗教儀礼の場

そこで、卒業設計では問題の条件を一旦緩くしたいと思っている。そこで目を付けたのは「観光地」という属性だ。

ジョン・アーリによれば観光地とは「記号の集積」とのことだ。またディーン・マキァーネルは「脱工業化段階にある近代社会は、それ自体がひとつの観光対象(アトラクション)になっており、産業や歴史や自然など、すべてが観光の<アトラクション>へと変わる可能性がある」といった旨の主張をしている(軽く論文に目を通した程度なのでこれから情報収集したい)。

またマキァーネルによれば、観光客は、「上っ面の部分」をみて満足するのではなく、むしろその裏側を見たがっているという。そこに「ホンモノ」があると信じられているからだ。そのため観光業者は裏側にある「ホンモノ」を演出する。これが「演出された真正性(staged authenticity)」である。

またそのほかにも「performative authenticity」という用語もあるらしい。訳が与えられていなかったので直訳すれば「遂行的な真正性」となる。しかし案外的外れな訳でもないと思う。
というのも「遂行的な真正性(performative authenticity)」とは、観光客が身体を動かしているうちに、よく分からないが「ホンモノ」だと認識してしまうことを指すようで、あたかも真正性が結果的に「遂行」されたように読めるからである。この手の研究は遡るとデュルケムまで遡るらしいが、なるほど、たしかに宗教儀式は身体行為を伴って体験するうちに「これは何かとても重要な気がする」という気持ちになる。そしていつの間にかその儀式を神や仏の真偽は別として真面目に、誠実に「遂行」してしまう。これは人間の本能に近い部分なのかもしれない(これまた冒頭しか読んでいないが吉本隆明の『共同幻想論』にも接続できそうな気がしている)。

また、この「遂行的な真正性(performative authenticity)」は東浩紀の「誤配」の概念にもつながりそうだ。ちょうど『観光客の哲学』という彼の著書があるが、誤配とは宗教儀礼の大衆版なのだろう。そのように見ると観光地は大衆向けの宗教儀礼の場であり、そうした地点から建築を捉えられないか考えたくなる。観光地ははじめから存在していたのではなく、足繁く通われるうちに人々の中で事後的に生成されたように、建築も事後的に生成されるものであれないか。そのためにコンセプトがあり、そうした建ち方を許容できるのが観光地なのではないか。

こうした主張はコンセプト建築と相性が良いように思える。観光地でケーススタディをすることがそのまま近代社会への考察につながりそうな気配がある。コンセプトをそのまま受容するのではなく、身体体験を通じて「誤配」が起き、次のコミュニケーションや創造につながる事後的な生成を狙いとした建築。コンセプトは「誤配」の孵卵器に過ぎない。

目的は「大衆向けの宗教儀礼の場として観光地を捉えたときに、その役割を遂行できる建築とは何かを考えること」である。コンセプト建築を観光地において検証することで、それが持つ「ふまじめさ」を批評的に語ることを可能にすることが当面の目標だ。それは「遂行的な真正性(performative authenticity)」=「誤配」に身を委ねることで事後的に生成される連帯に目を向けることで達成されるのではないかという仮説を立て、実行する。

ひとことでまとめると「俗っぽくてもウケ狙いでもいいじゃないか、本質はその背後にある」ということである。まだ粗の多い試論の段階だが、これらの仮説をこの一年で育てていきたいと思っている。


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