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アゴタ・クリストフについて

 2024年5月25日、土曜日。皆様はいかがお過ごしでしょうか? 今日は曇っていて、さほど気温は高くない。僕が住んでいる部屋からは、鳥の声がすごくよく聞こえる。何の鳥か分からないけれどチュンチュン、と近くで鳴いたあとに、おそらくは同じ種類の別の鳥が遠くからチュンチュン、と返す。彼らは何の話をしているのだろう、と僕は思う。鳥には鳥にしか分からない言語というものがあるはずだ、という気がしている。


 以前東京にいたときには、(マンションの)目の前が保育園で、日曜日や祝日以外には、いつも子どもたちの声が響いていた。線路も近くて、遮断機のカンカンカンカンカンという音、電車が通り過ぎるゴォーッという音もよく聞こえてきていた。それに慣れていた人間としては、今の環境は(多少は)静かである。近くに小学校や公園があるので、ときどき若い子たちが大声で騒ぎながら通り過ぎていくけれど。


 まあそのような環境で今まで通りのルーティーンを辿りながら生きております。はい。環境がちょっと変わっただけで、実質的に仙台時代からやっていることは変わらない。バイトをして(今は週5で入っている)、軽い筋トレをして、ランニングをして、めしを食って……あとは書く。とは言っても平日はあまり書けないことも多い。思っているよりも疲れているらしく、なかなか集中力が持たないのだ。僕が思うに、ゼロから何かを立ち上げる(僕の場合小説を書く)という行為は最も精神力を必要とする行為の一つである。それは結局のところ――少なくとも僕の場合――ちょっとでも眠いとうまく書けない、ということを意味する。今までは気合いが足りないだけだと思っていたのだけれど、気合いだけではなんともならない領域がこの世には存在しているらしい。だからこの間は思い切って走る日を一日減らした。運動も大事だと思う(自分をまっすぐ保っているために)。でもやはり僕の場合、この「書く」という行為が精神にとって重要であるらしいのだ。これはまあ前から分かっていたことではあったのだけれど。


 自分の中の優先順位が少しずつ移動してきた、という感覚があって、前はもっと余計なことを考え過ぎていた。たとえば「書く」という行為一つを取ってみても、人によっていろんなやり方がある。ある人は一度書いた文書を何度も何度も書き直すし、ある人は勢いのまま書いてそのまま発表してしまったりする。一生のうちに少ししか作品を書かない人もいれば、たくさんの作品を発表する人もいる。そしてそのそれぞれが自分のやり方とか信念を持っていて、正直なところそれなりに説得力があったりするのである。そうすると僕は混乱してしまうことになる(特にその作品が優れている人々に関しては)。この人はこう言っている、でももう一人は正反対のことを言っている。どちらもそれなりに説得力がある。じゃあ僕は……どうしたらいいのだろう?


 もちろん自分のやり方を探るしかないのである。そんなことはずっと前から分かっていた。でも実際に自分の方法論を確立するのには時間がかかる。プラス、「書く」という行為以外にもいろんな人がいろんなことを言っている。最近ではみんながいろんなことを教えてくれようとしている。筋トレした方がいいとか、都会より地方にいた方がいいとか。金儲けはこうやった方がいいとか。海外に行った方がいいとか。ありとあらゆる助言がある。でも実際に生きるのは僕一人だし――少なくとも僕の人生においては――そこには間違いなく限界がある。時間も、エネルギーも限られている。その中でどのように生きていったらいいのか?


 まあ結論としてはいろんなことをやりながら、真に自分に必要なことだけを残していく。そのやり方も、状況に応じて、自分の状態に応じて、ちょっとずつ変えていく。それしかないと思う。結局生きたシステムを作り上げるのは、生きた本物の経験だろう。それが若い頃の僕に最も不足していたものだ、というのは最近気付いたことだ。


 というのはまあ一般論で、最近アゴタ・クリストフを読んでいた。1935年にハンガリーで生まれた女性作家で、1956年ハンガリー動乱の際に祖国を脱出し、後にスイスに移住する。そこはフランス語圏だったので、後天的にフランス語を学ばなければならなかった。ハンガリー語で詩などを書いていたのだが、生活のためにはフランス語で書かなければならないと一念発起し、自分の戦争体験などを元にした小説をフランス語で書いた。『悪童日記』は本当に素晴らしくて、これは半年ほど前に文庫本で読んだ。ずっと読まなくちゃと思いながらほったらかしにしていたのだけれど、読んだときにもっと早く読んでおけばよかった、と思った。こう思わせてくれる作品と出会えるというのは、なかなか幸福なことである。もっとも彼女の作品はどのように見ても「幸福」とはかけ離れた場所にあるように思える。その文体が簡潔で、余計な心理描写を含まない、というところもあるのだけれど、かなり意図的に人間の精神の闇の部分に光を当てようとしているように思える。ここには一切偽善が含まれていない、というのが最初の感想だった(そしてそれは今でも変わっていない)。現実的にはあり得ない話なのだと思う。主人公の双子があまりにも強過ぎる(精神的にも、肉体的にも)、というのがそう感じさせる一番の理由なのだと思う。もっともこれはいわゆる「リアリズム」とは別の領域で成り立っている話であって、そのような文脈で見ると、かなり有効に文学的効果を発揮しているのだと思う。彼らの心の闇と、我々読者の心の闇が深い場所でつながっている。そんな感じだろうか? 僕らは彼らの目を通して、矛盾した、血なまぐさい戦中の東ヨーロッパを――もっとも具体的な国名は出てこないけれど――通り抜けることになる。


 最近読んだのはその続編の『二人の証拠』と『第三の嘘』、そして直接的には関係ない独立した長編の『昨日』である(プラス自伝『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』)。これらは図書館で借りて読んだ。彼女の文体はとにかく簡潔なので、ものすごく読みやすい。物語が早いテンポで進行していく……。もっとも時折普通の文法を(おそらくは)意図的に無視した夢の描写が出てきたりもする(『昨日』の一部など)。そこは決して読みやすくはないが……やろうとしていることはよく分かる。彼女は独自の言葉の使い方によって、どこか深いところを目指しているのである。その「深いところ」はあまりにも込み入った場所にあるため、普通の表現方法では何があるのか(何が起こっているのか)描写することができないのだ。そのような感覚が――たぶん――僕のやろうとしていることとかなり近いところにあって、少し勇気付けられるような気がした。


 戦争、貧困、失望、単調な生活、性的な問題、殺人……そのような様々な状況を、主人公たちは通り抜けていく。彼らは生身の人間というよりはむしろ、フィクショナルな装置に近いように、ときには見える。あまりにも淡々とし過ぎているし、普通の人間のような弱さをあまり見せないからだ(ちなみに四冊の長編において主人公は全員男である)。それでもところどころ、彼らが実は愛を求めているのだ、と思わせるような箇所もある。しかし彼らはそれを手にすることなく(あるいは愛とは何なのか理解することなく)、現実を生き延びていく。


 明るくて、人の心を高揚させるような話ではない。彼女のパーソナリティーがそのような物語を書くことを良しとしないのだと思う。それでもなお、どこか本質的なところとつながっているという印象を与えるし、読後に気分が悪くなるわけでもない。むしろこの人が書いた別の作品を読んでみたいと思わせる何かがそこにあるのだ。物語を書くことによってしか近付くことのできない何か……。見たいものではなく、見るべきものを私は見るのだ、という姿勢●●というか、視線●●というか、そのようなものが彼女の文体を魅力的なものにしていると僕は思う。単純に模倣したとしても、その本質を捉え切ることはなかなかできないのではないか。というのも我々(の多く)は手練てれん手管てくだろうして、時に本質から逃げようとばかりしているからだ。僕にしても例外ではない。たぶん。


 いずれにせよ夜に――もう寝なきゃならないのに――続きを早く読みたくて、どんどんページを繰っていってしまう。そのような経験は久しぶりのことだった。自分で書くことの方が優先で、あまり他人のものを読む時間がなかったので。そのような経験をしている間は、僕は純粋な喜びの中にいる。一時的に現実を離れて、アゴタ・クリストフが用意した架空の血なまぐさい世界の中に入り込む。そしてそこで主人公たちと一緒に時間を過ごす。そこには独特の暗さがあり、真実のもたらす重みがある。その匂いを嗅ぐ……。そのような(内的)世界が図書館の一画に存在していた、というだけでも、希望を持つに足りるものだと(ときどき)僕は思う。単調なアルバイト生活。いつここを抜け出せるのか分からない。もう32歳になってしまった。金なんかない……。それでもなお、書くことに希望を見出していた人がここにいるのだ。アゴタ・クリストフはスイスに亡命したあと、一時的に時計工場で働いていた。『昨日』の中にそのような描写がある(どこまで実際にあったことなのかは分からないけれど、その経験が生かされていることは確かだと思う)。外国人でもできるような、ほとんどしゃべらなくてもできる仕事。同じ部品の同じ場所に、機械で穴を開け続ける……。自伝によれば、同胞のうち二人が禁固刑が待っているにもかかわらずハンガリーに戻り、二人が北米に移り、四人が自殺した、ということだった(最年少は18歳の女性だった)。より良い暮らしを求めて、命懸けで国境を越え、生活水準としてはまともになった。しかしそこにあるのは――続いていくのは――灰色の、単調な、面白みのないごく普通の生活だけである。彼女は書くことによってそこから抜け出そうとした。ハンガリー語で書いていては生活できない、ということもあったし、周囲の人間たちがフランス語を話している状況でハンガリー語で書いていては「翻訳になってしまう」という思いもあった(つまり自分の周囲の状況がフランス語で構成されている以上、それを外国語で自然に描写することはできない、と感じたのだと思う)。子どもたちは学校でフランス語を習っている。彼女もまたヌーシャテル大学の夏期講座でフランス語を学ぶことにする……。


 なんというのか、その不屈の姿勢が僕に勇気を与えてくれる。彼女がフランス語で書くようになったのは本当に「たまたま」で、自分で選んだわけではない。もしドイツ語圏に住んでいたら、ドイツ語を学んでいたはずだ、というようなことをどこかで言っていた。幼い子どもを抱え、単調な労働をこなしながら、書き続ける(ちなみに彼女はもともと母国で高等教育を受けた「インテリ」ではない)。亡命当初はフランス語を読むこともできなかったが、努力して読むことができるようになる。読書家だった彼女は再び喜びの時間を取り戻す。次は書くことだ。外国語で、書くこと……。


 僕はハンガリーについてほとんど知らない。「ハンガリー動乱」のことだって、教科書でちらっと見ただけだ。その渦中にいた人々の生活がどのようなものだったのかなんて、まったく考えたこともなかった。でもこの一人の作家の文章によって、それらがありありと蘇ってくる。特別な視点と、特別な文章。それを支えているのはテクニックではなくて、おそらくは彼女の執拗な「生き方」なのだと思う。


 彼女のインタビュー記事にこんなものがあった。


(作品を書き終えたときの気分を問われて)「気分が悪くなります。でき上がった本は、もう私のものではありません。私は、読み返すことさえできません。虚脱感の中に、ひとりぽつねんと取り残されます。書く行為を精神分析に似ているという人々がいますね。書くことによって立ち直れる、最後まで書き切るとそこに幸福が待っている、というわけです。私に言わせれば、そんなことはまやかしです。書けば書くほど、病は深くなるのです。

 書くというのは、自殺的行為です。それでいて、避けることのできない、必然的な行為なのです。書くことにしか、私は興味がありません。たとえ作品が出版されなくても、私は書き続けます」

「書かなければ、生きる理由はありません。書かなければ、なんて退屈なんでしょう。何をしていいやらわかりません……」

『第三の嘘』堀茂樹訳、早川書房、あとがきより


 僕は知らぬ間に、書くという行為の中に「救済」というか「救い」のようなものを求めていたのかもしれない、と思う。もちろんアゴタ・クリストフの感覚がすべての人に適用されると考えているわけではない。もっと別の感覚で書いている人も大勢いると思う。それでもなお、彼女のこのインタビューを読んだときにほっとした。ああそうか。それでいいんだと。絶対的な救いが訪れなくても、書く行為そのものの中に――あるいはその執拗な継続の中に――何かがあるはずだと信じられるような気がしたからだ。だから生きるという行為はなかなか変なものだと思う。時に退屈し、時に絶望し(たような気分になり)ながらもなお生き続けている。書く行為によって病を深くしていく。深くしていけばいくほど、なぜか、真実に近付いていくような気が、僕にはしている。そこに救いは待っているのか? 僕にはよく分かりません。そこにそれだけの意味があるのか? それもまたよく分からないことです。とりあえずは自分にとって必然性があると思える行為をやっていくだけでしょう。それができる間は。


「人はどのようにして作家になるか?

 まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人などこの先一人も現れないだろうという気がしても。たとえ、書き上げた原稿が引き出しの中にたまるばかりで、別の原稿を書いているうちに前の原稿のことを忘れてしまうというふうであっても」

『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』堀茂樹訳


 もちろん先にも書いたように、人にはいろんな考え方があり、いろんな生き方がある。彼女の考えを――信念を――簡単に自分に当てはめるのは危険なことだと思う。それでもなお、勝手にその言葉から滋養を引き出すことは別に間違っていないのではないかとも思う。執拗に書き続けること●●●●●●●●●●。もしそれが自分にとって必要なことなのであれば――ここが結構重要なのだが――僕はそれをやり続けていくべきなのだと思う。誰のために? たぶん自分自身のために。それでは。お元気で。




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