自信を失って気付いた、本当に大切な自信の育て方。
とにかく、自信が欲しかった。
何も取り柄がなく、周りに貶され、生きているだけで自己嫌悪で苦しかった中学時代。
「生きているだけで偉い」
なんて伝えてくれる人はいるわけもなく、
人より運動ができないこと
人より勉強ができないこと
人より容姿がよくないこと
人より話が面白くないこと
全てが自己否定の材料に代わり、寝れない日々、胃腸を痛める日々が続いた。
何のために生きているのか分からなかった。
無理矢理ポジティブ宣言
だだ、苦しい日々から逃れたかった。
決死の想いで、本屋に足を運び、出会ったのが心理学だった。
そこでは、同じような自己嫌悪に苦しむ人が、物事をどう解釈し、どうやって幸せに生きていけばよいのかが綴られていた。
当時の未熟だった僕は、
「感情は事実でなく解釈によって変わり、事実をポジティブに捉えることで、喜びを感じることができる」
と理解した。
ダメな自分に目を向けるのではなく、良い自分に目を向けて、それを肯定することで、ポジティブに生きていこうと誓った。
元々は中々の不安症で、
「明日、地震が来たらどうしよう」
「(少しの腹痛で)癌だったらどうしよう」
なんて考える自分にとっては、大きな変革だ。
後天的に手に入れた自信
同世代とは結果に対する執着が桁違いだった。
①自己嫌悪を逃れるために勉強する人
②親に言われて嫌々勉強する人
どちらの方が成果に執着できるか考えたら、①前者に決まっている。
元々、勉強は得意でなかったが、短期間で偏差値を10以上伸ばし、偏差値65くらいの高校に合格した。
「自分は勉強に関しては上位10%の位置にいる。だからダメ人間じゃない」
等と言い聞かせて、何とか自己嫌悪を少しずつ解消していった。
しかし、いざ勉強を攻略して高校に入ってみると、そこには勉強ができるだけでなく、コミュ力が高く、運動も得意で、恋愛経験も豊富な人が周りにいるわけである。
「やっぱり自分はダメ人間だ」
と心が叫ぶたびに、
「でも、勉強だけは自分の方ができる」
「でも、あの人は性格が悪そうだ」
なんて、自分を肯定する解釈を探しながらも、更に力を付けられるように努力した。
そんな生き方を続けると、ようやく自信が持てるようになった。
いい大学を出て、友達が多くて、仕事ができて、SNSで何度かバズって、運動も好きになって、容姿も良くなってきた。
また何より、自分は最初は上手くいかなくても、頭を使って努力すれば大抵のことはできるようになると思えるようになった。
自信がつくと、景色が変わって見えた。
自信のある人に人はついてくる。
できると信じれば、不可能は可能になる。
そう信じて疑わなくなり、周りの色んな人からも、
「自信があって羨ましい」
「自信があって尊敬する」
と言われるようになった。
(皮肉かもしれないが)
そしてその成功体験は、
自分は他の人より優れた人間であり、人にはない才能を持っている。
という感情を呼んだ。
その感情に浸るのは心地が良かった
プライドがへし折られた日
ここまで読んでくれた方は察したと思うが、要するにナルシストだ。
自分を肯定するために、無意識に序列をつけ、自分がその上位に位置することを確認することで、悦に浸ることで、自我を保っていた。
性格が悪いのは100も承知である。
心理学をたくさん学んでいる自分には、この自我の保ち方が健全でないことも、100も承知だった。
それでも「ダメ人間な自分」を肯定するために10年間かけて培った思考癖は中々変えることはできなかった。
勉強ができなくて、仕事ができなくて、コミュ力が低くても良いのだとしたら、過去の自分の努力を否定することになってしまうのだ。
本性を隠しながら世の中を生きることで精一杯だった(バレているとは思うが)
プライドが富士山を超えるかの如く高まっていった自分は気付かぬうちに、
1つの失敗も許せない
人から下に見られたくない
自分の考え方はある程度正しい
と思うようになっていた。
このプライドは時に強烈なエネルギーを生み、高い成果を残す原動力になっていたのは事実であるが、
同時に高いストレスにも繋がっていた。
自分を肯定したいがあまり、他の価値観を否定することは幸福に繋がらないし、日々失敗に怯えながら過ごすのも、苦しいものである。
何より、薄々そんな現状に気付きながら、自分の生き方が間違っていると認めたくないプライドが、ストッパーをかけることを阻止した。
そして、破綻した。
そんな生き方が数年続くと、どんどん仕事の難易度が上がり、どんどん周りからの評価も上がり、自分の期待値も上がり、どんどんプライドも高まっていった。
自分が平凡であることを、許せなくなっていた。
そして、弱みも見せられなくなり、自分に対する高すぎる期待に実態が追い付かなくなっていた。
心も、体もついてこなくなった。
幸い、心理学の知見はあったので、自分自身がうつ病の初期症状であることを自覚し、少し仕事を減らしてもらうことで、心を休めることにした。
▼認知の歪みの招待を教えてくれた本▼
13年ぶりの挫折
負けたのだ。
自分の、力不足だったのだ。
自分の掲げた理想を成し遂げられず、休養し、心の回復に努めるしかない現状を見て、率直にそう感じた。
ほぼ、初めての感情だった。
いつも負けへの異常な恐怖から、無謀な挑戦をせず、勝てるフィールドで、勝ち続け、自分を肯定し続けてきた僕だが、言い訳の仕様がない完敗だった。
完敗とは清々しいもので、いったん努力の類を全て辞め、心が休まるまで自分を最大限甘やかし、休み、遊ぶことにした。
2か月休んで、ようやく体調が戻ってきた頃には、過去に呼んだ心理学の書籍を読み返し、改めて今後の心との向き合い方を考えるなどした。
▼心と向き合う指針になった2冊▼
そして、驚くほどに性格が変わっていた。
瞬く間に、自分に自信がなくなった。
まず、あれだけ培ってきたはずの自信が、どっかに消え去って「自分は何もない人間だ」と感じるようになった。
休日も数時間は勉強やトレーニングをしないと気が済まなかった人間が1日中何もしないことに、焦りを感じなくなった。
そして何より、今まで培ってきた「強い自分であること」より「日々の幸せを感じられること」が大切かもしれないと思うようになった。
日々の幸せを感じることの重要性も心理学の知識では100も承知していたし、自分も重要視していたつもりだったが、心のどこかで「強くなりたい」が先行していたのが過去だった。
▼幸福論の基礎本▼
そして、急に生き方が分からなくなった。
強くなるために努力して、他者貢献して喜ばれて、稼いだお金で自由に暮らすことは、頭ではある程度重要だろうと分かっていても、心がその目標に対して、今までのように動かなくなった。
本音を言えば、今も、迷子中である。
本当の「自信」とは
それでも最近、人生がなんだか上手くいくような気がしてきてならない。
それは本当の「自信の育て方」が分かってきたからだと思う。
今までの僕は、分かりやすく「自分に価値がある理由」を箇条書きで並べることで、不安を解消し、自信を培ってきた。
でも、本当に必要なことは、
「自分の感情を肯定する」
ことだったように思う。
不安な気持ちでもいいじゃん
人を見下す気持ちがあってもいいじゃん
自信がなくてもいいじゃん
ダラダラしたい気持ちもいいじゃん
と自分の心に生まれた素直な気持ちを認めてあげること、つまりは自分の感情を信じて、許してあげることが、自信の構築に繋がると実感した。
実は3年前から、頭では理解していた。
心について学んでいれば、この考え方に出会うことは、あり触れている。
▼定期的に読むマインドフルネス本▼
それでも、
【自分の「ダメな感情」を肯定して、それに従っていたら、価値のない自分になってしまうのではないか?】
という不安が先行し、どうしても自分の心を守ることができなかった。
ただ、実際その心配は杞憂に終わり、
自分の感情を認めてあげることで、自己肯定感が上がり、精神的に安定することで、
「不安な気持ちがある」→「なんで不安なんだろう」→「自分には○○という欲求があるからだ」→「でも欲を爆発させたら社会的にダメだ」→「なら相手も自分も満たされる○○をしてみよう」
と、冷静に自分の欲求を深堀することができ、それに従って生きることで変なストレスがなくなり、かつ冷静な判断ができることで、暴走することも減るようになった。
▼人間関係にも使える感情との向き合い方▼
そして何より、自分を肯定するための偏見から逃れたことで、人の長所やありがたみに気付けるようになった。
自分よりある点で優れている人と出会ったときに、
前:でも、この点なら自分の方が優れている
後:すごい!自分も見習いたい!
と自分を肯定するためのバイアスをかけずに、世の中をフラットに見られるようになった。
(その分、自分を未熟だと思うことは増えた)
今の僕は、
未来が不確定で、不安がある。
自分のスキルに、自信はない。
昔ほどのエネルギーも、今はない。
まだ、プライドは高い。
それでも、そんな自分も認めながら、1つずつ自分の感情を向き合い、本当に作りたい未来を描き、そのために行動でき始めている。
自分の弱い部分を認めつつ、弱い自分でも幸せに生きるために、できることから行動しておこうと思えている。
そして、今までとは違うこの生き方が、意外と楽しいのである。
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