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【官能小説】愛の解剖学【1】

 朝八時半、井下聡子いのしたさとこはいつものように大学の正門をくぐった。100メートルほど続く見慣れたいちょう並木を歩きながら、ようやく葉が色を帯びてきたことに少しだけ関心を寄せた。もうすぐ綺麗な紅葉を見ながら出勤できる。そう思うと、少しだけやる気が湧いた。
 聡子の職場がある棟へ行くルートには二つある。ひとつは正門から道なりに歩き、中庭を通るルート。もう一つは目の前に聳え立つ、この大学のシンボルといってもいい十階建ての二号館を突っ切るルートだ。二つのルートの違いは特にないが、しいていうなら後者の方が少しだけ早く職場に着くことができる。時間にして約二分ほどだが、聡子はいつも二号館を突っ切るルートで職場に向かっていた。
 二号館を抜ける手前で、目の前の自動ドアから青い制服に身を包んだ若い警察官が入ってきた。かなり背が高く、おまけに身体つきもいい。さすがは警察官だなという感想を抱くと同時に、大学構内で何か事件でも起きたのだろうかと少し不安になった。しかしその不安はすぐに払拭された。その若い警察官が、実は警察官ではなく大学の警備員だということに気が付いたからだ。

「おはようございます」

 すれ違いざまに制帽のツバに手を当てながら、若い警備員が挨拶してきた。聡子も軽くお辞儀をしながら「おはようございます」と、ぎこちなく返した。目深に被った制帽のツバから見える警備員の顔は、意外にも整っているように見えた。
 若い警備員なんて珍しいな、と聡子は思った。この大学の警備員といえば大抵が五十代か六十代のおじいちゃんで、定年後の再雇用で働いているような人たちばかりだ。若くても四十代ぐらいの男の人がニ、三人いたような気もするが、正直にいって覚えていない。そもそも大学警備員の顔を覚えている職員などいるのだろうか。否、きっといないに違いない。皆、授業なり研究なりで大忙しなのだ。総務課や学生課の職員ならまだしも、警備員の顔など一々覚えられない。そんなことを思いながら、聡子は二号館を抜けていった。
 二号館を抜けると目的地である四号館がすぐ目の前に出てきた。鉄筋コンクリート造の地上五階、地下一階建ての建物は、スポーツ科学部専用に作られた棟であり、バイオメカニクス実験室や生理学教室など、人体や体育に関することを研究している。そして彼女の所属する解剖学研究室もこの四号館に入れられていた。この二号館という大きなシンボルに隠れた四号館こそが、彼女の職場であった。
 自動ドアが開き、聡子は四号館の中へ中に入った。いつものようにエレベーターに乗り五階を目指す。チーンという無機質な機械音で五階に到着したことを知らされ、それから数秒後に扉が開いた。エレベーターから降りると、彼女はすぐに自室に向かった。東側の一番奥にある部屋が、彼女が大学から与えられた唯一の個室である。
 扉に掲げられている行先掲示板のマグネットを帰宅から在室に移動させた。ふいに見えた『准教授』という文字に、一体いつになったら『准』の字が消えるのだろうという疑問が浮かんできた。教授の定数制度なんてものがなければすぐにでも教授になれるのに、とやり場のない怒りが今日も少しだけ溜まった。プライベートを捨てて論文を書いてきたこれまでの生活が、すべて無駄なことのように思えてきた。『准』の字が取れるまで、少なくともあと十年ぐらいはかかるだろう。そうなれば自分は五十歳で、完全独身のアラフィフの仲間入りだ。
 きっと両親からの「結婚しろ」攻撃も止むだろう。いや、もうすでに両親は諦めているのかもしれない。ここ最近は電話で話をしても、そういう話題は振られなくなった。仕事ばかりしている長女よりも、大手銀行に就職し結婚もして子供もいる弟のほうが、両親的には可愛いのだろう。先週の電話も、そのほとんどが甥と姪に関することだった。
 良い人がいなかったわけではないんだけどな、ともしかしたら歩んでいたかもしれない人生を想像しながら、聡子はヴィトンのトートバッグの中に手を入れて部屋の鍵を探した。しかし、いつもならすぐに見つかるはずの鍵がなぜかないことに気が付いた。不審に思いトートバッグの中を見て探してみるも、やはり鍵は見つからなかった。

「ええ、嘘でしょ……」

 独り言をつぶやきながら、聡子はカバンの中をガチャガチャとかき回して鍵を探した。昨日、せっかくトートバッグの中身を整理したというのに、これではすべてが台無しだ。まるで私の人生みたいだな、と聡子は思った。そして、昨日トートバッグを整理した時に、鍵を自宅の机の上に出したまま戻し忘れたことに気付いた。

「はあ……どうしてこうなるのよ」

 大きなため息をつきながら、聡子は肩を落とした。
 部屋の鍵を開けるためには、先ほど通り抜けた二号館にある警備室に行かなければならない。二号館と四号館は目と鼻の先だが、今いる五階から一階まで下りて、再び二号館に行くと思うとどうしても気が滅入る。周りの部屋の先生に内線だけ借りて警備室に電話するという手を思いついたが、あいにくどの部屋の先生も不在だった。
 仕方がないと思った聡子は、再びエレベーターに乗り四号館を出て二号館警備室へと向かった。先程通り抜けた自動ドアを再び通り、一階にある警備室の窓口へと向かう。ようやく警備室の窓口まで来ると、そこには今朝見かけた若い警備員が座っていた。

「あの、すみません。ちょっと部屋の鍵を忘れてしまって。お借りしたいんですけど」
「はい、わかりました。ではこちらの用紙に記入をお願います」

 そういいながら、若い警備員がバインダーに挟まれた用紙を差し出してきた。聡子はその用紙に『4512』と部屋番号を記入し、名前と所属も書いて警備員に渡した。若い警備員は返された用紙を確認して、ゆっくりと口を開いた。

「四号館の……井下先生ですね。すみませんが、教職員証を見させていただけますか?」
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとうございます。少々お待ちください」

 若い警備員は差し出した教職員証と用紙を交互に確認し、その後、教職員証を返してきた。やはり新人なのだろうか、年配の警備員に比べ動作のひとつひとつにぎこちなさが滲み出ていた。

「ありがとうございます。では、今から開けに行きますね」

 そういって若い警備員はトランシーバーと部屋のスペアキーを持って警備室から出てきた。あらためて見ると、その警備員の身体がかなりいいことに気が付いた。身長はおそらく180cm後半から、下手をすれば190cmあるぐらいの高身長で、それでいて全身の筋肉は引き締まり、程よく厚い胸板が警備服の上に浮き出ている。聡子の所属するスポーツ科学部には全国大会で活躍するようなアスリートと呼べる学生が何十人もいるが、その学生たち以上にアスリートの身体つきをしていた。

「では、参りましょう」

 淡々と仕事をこなすような無表情の顔を彼が向けてきた。その顔に、聡子は少しだけ面を食らってしまった。鍵を借りに来たことは何度かあるが、ここまでの無表情を向けられたことはない。大抵の警備員は笑顔はなくとも、何かしらのリアクションを顔に出してくる。時にはめんどくさい仕事を増やすなという雰囲気を出す人もいる。しかし彼にはそれすらもない。まるですべての物事に興味なさげな、感情を失ったような顔をしていた。
 彼の後ろを歩きながら、聡子は再び四号館に戻った。戻る最中、鍵を忘れたこと以上の罪悪感になぜか襲われた。変に空気が重く、呼吸をするのでさえ息苦しかった。
 エレベーターに乗り五階へと向かう最中、無言に耐えきれなかったのか、それとも重い空気を変えようとしたのか、自分でもわからないまま彼女は口を開いた。

「最近入られた方ですか?」
「え? あ、ああ。はい、そうです。つい先週……入ったばかりで」

 彼は制帽のツバに手を当て、目深に被り直しながら答えてくれた。

「やっぱりそうなんですね。この大学の警備員さんって、結構年のいっている人たちばかりじゃないですか。だから若い警備員さんを見るの、珍しくて」
「そうですね。この大学の警備の平均が、大体五十半ばぐらいですからね」
「見たところすごくお若そうですけど、おいつなんですか?」
「一応……ニ十歳です」
「えっ、そんなにお若いんですか! 今いる学生と変わらないじゃないですか」

 そういうと、彼は再び制帽のツバを触りながら目深に被り直し、なぜか苦しそうに口角を上げた。それを見た瞬間、周りの空気が重くなった気がした。何かまずいことにでも触れただろうかと心の中で思っていると、タイミングよくエレベーターが五階に着いてくれた。ドアが開くと、彼は開閉部の端を押さえて閉まらないようにしてくれた。聡子は彼の返事がないことに気付かないふりをして先にエレベーターを出た。
 聞きたいことは色々あったが、結局、部屋の鍵を開けてもらうまで無言が続いた。時間にして一分にも満たなかったが、そんな彼との無言の時間が十分にも一時間にも感じられた。この大学に通う学生と同年代だというのに、まるで違う雰囲気に聡子は気圧された。
 鍵を開けて扉の開錠を確認すると、彼が口を開いた。

「では鍵は開けましたので、帰る時になったらまた声をかけてください」
「はい、ありがとうございます」

 聡子がお礼をいうと、彼はまた制帽のツバに手を当て、お辞儀しながら去っていこうとした。そんな彼の姿に、聡子は再び声をかけた。

「あ、あの。お名前、教えてもらえますか?」
「僕の、ですか?」
「はい、あなたの名前です」
「アラヤといいます。新しい谷で、新谷です」
「新谷さんっていうのですね。あの、鍵、ありがとうございました」
「いえ、仕事ですから。では」

 そういって、彼は再び振り向いて立ち去って行った。振り向き際には、やはり制帽のツバに手を当てていた。きっと彼の癖なのだろうと聡子は思った。
 新谷の背中が消えたのを確認すると、聡子は自室の扉を開いた。いつもの光景が目に飛び込んでくる。どこもかしこも書類と本の山だらけ。外国の論文や学生のレポート、気になって読んだ医学書など、整理整頓されずにところかまわず積まれている。片付けよう、片付けようと思っても、どうしても手が出ない。見かねた学生が何度か片付けたりしてもくれたが、今日のトートバッグのようにすぐに汚くしてしまう。
 部屋の入り口に積み上げられた書籍により完成している細い通路を通り、一帖ほどあるスペースを超えて自分の机までたどり着いた。骨まで寒そうにしているポールハンガー代わりの骨格模型に上着を掛け、聡子はようやく椅子に座ることができた。



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