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6-4.ルイジアナ購入と内部対立の芽

ルイジアナの購入

アメリカ合衆国史上最大の領土拡大となったルイジアナの購入は、第3代大統領トーマス・ジェファーソン(1801〜1809年。2期)の時代におこなわれました。彼は独立宣言の主要な執筆者でもあり、非常に有名だと思います。ジェファーソンは、西方に「自由の帝国」を拡大していくことをヴィジョンとして持っており、ミシシッピ川西側の地域の発展は、その実現に向けて大きく寄与するものだったのです。彼は、1803年にナポレオンがミシシッピ西方地域(ルイジアナ)をアメリカ合衆国に割譲する意向をみせたとき、即座に反応して同年10月にそれをフランスから購入した(15百万ドル)のです。これにより、アメリカの領土はロッキー山脈が西の端となり、現在のアメリカの面積の5分の3にまで拡大しました。

再びイギリスと戦火

1812年に、アメリカは再びイギリスと戦火を交えることになります。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波ともいえるもので、アメリカは不介入、中立の立場を取っていましたが、アメリカの商船にはイギリス軍艦から逃亡した脱走兵が混じっていることがあったため、イギリス海軍はアメリカ商船を公海上で停止させて臨検し、アメリカ人船員を強制徴用することがありました。時のアメリカ大統領は、第4代のジェームス・マディソン(1809〜1817。2期)で、連邦議会はイギリスに対しての宣戦布告を承認します。議会内の好戦派は、イギリス領カナダや、スペイン領フロリダに対しても領土的な野心を持っていたのですが、それらは成功しませんでした。そればかりか、1814年8月には首都ワシントンがイギリス海軍に攻略され、大統領官邸や連邦議会の建物が焼き討ちにあってしまいます。アメリカは目立った戦果もないまま、同年12月に講和条約を締結して戦争は終わります。しかし、この戦争中にイギリス工業製品の輸入を遮断したため、国内の製造業を育むことになり、さらには白人住民の西方(新領土)への移住に拍車をかけることになりました。

その後、アメリカはイギリス領カナダとの境界を明確にし、ロッキー山脈以西のオレゴン地域を英米共同領有地とすることでイギリスと合意を得ました。1819年には、スペイン領フロリダを購入(5百万ドル)し、ルイジアナと接していたスペイン領メキシコ(現テキサス州)との境界線も確定させました。そうして新たな領土とそれまでの領土を結ぶ、道路、運河が次々と建設されていくようになります。

それぞれの特徴の先鋭化

この戦争以後、西部とくくられる、北は五大湖周辺から南はオハイオ州までの地域は、公有地が安価で払い下げられたため、少額資本しかもたない開拓農民でも容易に土地が入手でき、自営農民を中心とする社会が形成されていきます。ここでは、市場向けに小麦やとうもろこしが栽培され、河川や新たに建設された運河などの水運を利用して、商品を流通させていました。

南部は、大西洋岸南部諸州とアパラチア山脈以西、オハイオ側以南をさします。ここは、かつてはタバコ栽培が盛んであった地域で、黒人奴隷制に立脚したプランテーション農業地域です。生産作物はタバコから綿花へと変わっています。1808年にアメリカは奴隷貿易が禁止されてから、いずれ奴隷制は自然消滅するだろうと考えられていましたが、イギリスで本格的に始動したいわゆる産業革命により、原材料である綿花の需要が急激に高まり、いっそう奴隷なしでは立ち行かなくなる状態になっていきます。奴隷貿易を禁止したのみで、国内での奴隷の売買、および奴隷制そのものが禁止されたわけではないため、多くの抜け道がありました。

建国当初から、もともとの13州は奴隷制を認める「奴隷州」と認めない「自由州」に分けられており、北部は「自由州(6)」、中・南部はほとんどが「奴隷州(7)」だった。それらの決定は州政府ではなく、連邦政府によるものとされており、新たに加わる「州」がそのどちらになるかは、議会の勢力を左右するため大きな問題だった。

北部はニューイングランド、中部大西洋岸諸州からなり、この地域では木綿工業を中心に機械化された工業が盛んになっていきます。それまで海外貿易へ資本を投下していた貿易商人たちが、国内の製造業へ資本投下するようになっていきます。

内部対立の芽(南北戦争の要因)

これら3つの地域は、お互いに依存関係にありましたが、同時に対立する要因も抱えていました。北部は原材料を南部の木綿に頼り、南部は木綿の販売を北部に頼っていた一方で、北部は保護関税をのぞんでおり、南部は自由貿易を望んでいました。西部の開拓民たちは、公有地のより低価格での払い下げと、生産物の市場流通の効率化のため、国内交通網の整備を望んでいましたが、綿花の積み出しに便利な河川沿いに農園を持つ南部は、それを望んでおらず、また北部では、工場での働き手が西部へ流出することを恐れていたため、低価格での公有地の払い下げに反対していました。これらの関係がこじれた時、南北戦争(1861〜1865)が始まるのです(後述)。

続く



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