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2-9.禁制・禁教

家康の激怒

秀吉の伴天連追放令が唐突ともいえるタイミングで出されたように、家康が完全にキリスト教そのものを禁教とした法令も、突然出されたといえます。しかも、宣教師の追放だけでなく、キリスト教を信仰することも禁止したのです。これは、秀吉時代と比べて格段に厳しいものとなりました。

家康のそれも、要因となったものは複合的でした。1609年にマカオで有馬晴信の派遣した船の乗組員約40人が殺害されるという事件が起こります。翌年、その弁明にやってきたポルトガル船を、今度は有馬晴信が長崎湾で焼き討ちにしてマカオ〜長崎間の貿易は、一時途絶することになりました。ポルトガルにとって、マカオ〜長崎間の貿易の途絶は死活問題です。彼らが運んできたものは、中国産の生糸です。これをマカオで仕入れて日本に持ってくることで、彼らは巨額の利益を得ていたのです。しかし、1611年に貿易の再開を求めにマカオからやってきたポルトガルのインド艦隊の司令官が、家康を激怒させてしまうのです。その司令官は、貿易を統制しようとする長崎奉行の廃止を求めたのです。そして、長崎奉行を廃止することをポルトガル船来航の条件にまでしたものですから、家康は激怒したのです。

この焼き討ち事件に関して、ともにキリシタンであった有馬晴信と岡本大八(本田正純の家臣で、当時正純は家康の書記官のような役割)の贈収賄事件が起こり、家康はキリシタンへの疑心を深めたともいいます。この背後にはイエズス会とドミニコ会(スペイン系)の暗躍があったとされてもいます(出所:「戦国日本/平川」P一157)。この2人は死罪となりました。

ついに禁令

1612年、家康は将軍秀忠名でキリスト教の禁令を発布します。そして2年後の1614年にそれは全国を対象としたものにしていくのです。秀吉時代と大きく異なるのは、キリスト教を信仰すること自体を禁じたものになったことと、教会の破壊、宣教師、ならびに信者を国外追放したことでしょう(日本国内に潜伏し続けた宣教師も多数いた)。求めていたメキシコ(スペイン)との通商は諦めても、オランダ、イギリスとの通商(プロテスタントとの国である両国は宣教を目的とはしていなかった)があれば、十分と考えたからです。

ちなみに、当時国家システムを持っていたと考えられる東南アジアや東アジアの国々はみな一様にキリスト教を禁教としています(出所:「『鎖国』を見直す/荒野泰典」P23)。日本だけでのことではありません。

当時、イエズス会だけでも約70名のヨーロッパ人宣教師がおり、キリシタンの数はおよそ37万人と推定されています(出所:「キリスト教/石川」P98)。家康が1616年に死去すると、秀忠は、1619年に京都で52名、1622年の長崎で55名、三代将軍家光は1623年に江戸で50名のキリシタンを処刑します。これは子供を含むものでした。ザビエルがひらいた日本でのキリスト教も、およそ80年をへて大きな試練を迎えることになったのです。よく知られている「踏み絵」は、1628年から始められたといいます(出所:「キリスト教/石川」P103)。

キリスト教に対し、警戒を抱きつつもやや寛容ともいえた家康から、家康の寛容を知りつつ厳しくした秀忠の時代を経て、家康のそれを全く知らず、かつ生まれながらの将軍であった家光が、より過激な厳しさへ舵を切ったのです。しかし、それでもなお、マカオやマニラからやってくる宣教師はあとを断ちませんでした。今度は、上陸後の迫害を知った上での上陸です。死を覚悟してまでも宣教のためにやってくる彼らを、幕府は憎みました。「お前らのせいで、罪もない日本人が死なねばならぬからだ」という理由です。

続く

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