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1-2.東西をつなぐ海のシルクロード

エリュトラー海

古代、ユーラシア大陸の西と東を結ぶものとして「シルクロード」が有名ですが、これは陸路だけでなく海路も存在していました。「エリュトラー海案内記」という、ギリシャ語で書かれた、いわば商業マニュアルが存在するのです(一世紀半ばに書かれた)。

エリュトラー海とは、現在の紅海とペルシア湾、インド洋を指し、その案内記は、季節による風向き、海流の方向を細かく記してある航海の指南書でした。それによれば、紅海のアラビア半島対岸の東アフリカに二か所、アラビア半島に二か所、インド西岸に四か所に主要な交易地が記されています。ローマは、そこへ向けて主にガラス器、葡萄酒、珊瑚を運び、逆に絹と胡椒をそれらの場所から持ち帰っていました。アジアからの商品は、当時ローマ帝国の領土だったアフリカ大陸北部にあるアレクサンドリア(現在も同名のエジプト第二の都市)に集まり、そこから地中海を通じてローマへ運ばれていました。

ローマ帝国時代から日常生活に必要不可欠だった胡椒

英語でPaperとよばれる胡椒は、インドの古代サンスクリット語「ピパリ」に語源があります。ローマ帝国の第二代皇帝時代(1世紀のころ)の料理書には470種ほどの料理中、その8割のメニューに胡椒が用いられているそうです(「シルクロードとローマ帝国の興亡/井上文則」P50)。その時代から、アジアの商品は、ヨーロッパ人の生活にとって欠かせないものだったのです。そして、アジアから運ばれてくる絹と胡椒は非常に高価なものでした。運ばれてくる距離の長さに比例して多くの商人が介在するからです。

富の源泉「アジア」

ヨーロッパにとって、東方の地アジアは憧憬の地でした。ヨーロッパの中心は、ギリシャ、ローマから始まり、ついで地中海の都市国家ヴェネチアやジェノヴァへと移っていきますが、地図をみておわかりのように、アジアとつながっていたからなのです。

次回以降、時代がかなり下ります。ヨーロッパが東の果て「日本」にまでやってきた経緯を見ていきます。

続く


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