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10-3.堀田正睦と岩瀬忠震

始まらない日蘭交渉

8月20日に長崎奉行との面談をおこない、日蘭の追加条約交渉の開始を待ち焦がれていたクルチウスですが、全権をもった新任奉行が来ていないことなどから交渉は始まらず、しかも10月になると、交渉開始を半年延期することを言い渡されます。その理由は、前述の貿易に関する調査の時間が幕府に必要だったからです。さらに、幕府だけで調査をおこなうことは十分ではないことも考えられたため、江戸にクルチウスを呼んで、相談役としようとも計画されていたのです。結局、この計画はバウリングが長崎にやってきた際に、クルチウスに応接の仲介を務めてもらうことが優先されたため、実行はされませんでした。

外国事務取締掛の設置・任命

すでにバウリング来航とされた時期(9月末から10月)が過ぎ、その危機感がやや薄れた11月17日、既に前年(1855年)に、阿部正弘から老中首座と外国事務取扱が命じられていた佐倉藩(現千葉県佐倉市)藩主堀田正睦まさよしに、さらに外国事務取締係が任命されました。

これは堀田を筆頭に9名(若年寄1、目付系4、勘定系4)で構成されています。当面、彼らの使命は貿易の調査でした。ここに任命された一人が、目付であった岩瀬忠震ただなりです。彼はこの2年後にハリスとの通商交渉を担い、のちに「安政五カ国条約」とよばれる5カ国との条約全てに署名をした唯一の人間となっていきます。福地桜痴は岩瀬を称して

「識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備えたる人なり」(「幕末政治家/福地桜痴」P257)
 
と述べています。岩瀬については、以前書きました(「五州何ぞ遠しと謂わん」)。これからも頻繁に登場してきます。阿部は首座の地位を堀田に譲ったとはいえ、それまでは外交に関する方針を出してはいましたが、ここから徐々に堀田が主導権を握るようになっていきます。堀田は、「蘭癖らんぺき」とも称される人間で、二度目の老中就任でした。彼の起用を水戸斉昭は大反対したらしい。堀田を外国かぶれとみていたからです。

その堀田を福地桜痴はこう述べています。

「ただし、備中守(筆者註:堀田のこと)はその才智の機敏においてこそ、伊勢守に譲る所もあれ、その識見においては、あえて他の籠絡を受くるの人にあらず。備中守自己の意中とても外務は我これに当り、内務は伊勢守これに任ぜば、幕府をしてこの難関を渡過せしむるを得べしと、厚く信じてこの任に当られたるは、備中守がこれ以後の行為にてはなはだ明白なり。」(「幕末政治家/福地桜痴」P46)

阿部の目論見

阿部はなぜ「外国事務」を堀田の専門としたのでしょうか。これには、「内政」「外交」を分け、自身は「内政」に専任したからったと考えられています。阿部の中にあった大問題は「将軍継嗣問題」でした。阿部は当時英明の誉高かった一橋慶喜を14代将軍としたかったため、その政治工作を行なっており、その一環として13代将軍家定の正室として島津家から「篤姫あつひめ」を迎えていたのです。薩摩藩主島津斉彬も「慶喜派」でした。

福地桜痴はこう述べています。

「これ伊勢守(筆者注:阿部のこと)が巧みに責任を避けて、その禍を備中守に嫁したるなりとの批評は、けだし免れざる所なるべきも、伊勢守は、さりとてあえて責任の外に退きたるにはあらず、その力を内国の方に専ら用いて善処せんとの観念は、切に伊勢守が胸中に貯えられてこれを等閑にせざりしなり」(「幕末政治家/福地桜痴」P四三43)

堀田は、このあと1858年までの、騒然とした時代の舵取りを行うことになります。堀田は、条約締結への積極派でした。

堀田は藩内で「蘭学」を奨励し、西洋医学も導入。現在の順天堂大学の創立は、堀田によって佐倉藩に招かれた佐藤泰然が1843年に創設した「佐倉順天堂」という蘭方医学塾兼病院がその端緒である。

貿易調査機関(外国事務取締掛)設置を促したもの

田辺太一の「幕末外交談」には、この貿易調査機関の設置について、同年9月23日からハリス応接のために下田に派遣され、10月13日に江戸へ戻ってきた岩瀬の報告がそれを促したとあります(出所:「幕末外交談一/田辺太一/坂田精一訳・校注」P40)。

時間をややさかのぼり、岩瀬の下田派遣の目的と、そもそものハリスの下田来航についてみてみます。

続く


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