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4-10.朝鮮幽囚記(余話として)

朝鮮に漂着したオランダ人

1653年7月に台湾から長崎へ向けて出港したオランダ船が、途中嵐に遭遇して朝鮮済州島に漂着しました。64名の乗員のうち上陸できたのは36名でした。彼らは現地住民に保護されます。やがてそこに朝鮮の首都であった漢城(現ソウル)から、事情聴取のために役人がやってきましたが、その中に1人のオランダ人がいました。彼の名はウェルデブレー。1627年に朝鮮に漂着し、その後朝鮮の兵士として雇われていた人間でした。

漂着の翌年1654年、36名は全員が漢城へ移送され、その後、彼らは全員が兵士として雇われるようになります。おそらく不本意だったと思います。

1656年、そのうち2名が自分たちの存在を清の使節に直訴したため、殺されてしまいます。

1666年、漂着からから13年が経つと、生存者は16名にまで減っていました。その中の8名が舟を買い入れて、出国を試み、長崎五島へだどり付くことができました。8名は長崎奉行の取り調べを受けたのち、オランダ商館への滞在を許され、1657年に長崎を出港、1658年に母国アムステルダムへ到着することができました。この帰国者の1人(ヘンドリック・ハメル)が、直ちに自らの体験を出版しました。それが「朝鮮幽囚記/東洋文庫」です(わたしは未読)。

また、朝鮮にのこっていた8名も対馬藩を通じての交渉の結果、残留を希望した1名を除いて、全員が長崎へ移送されてきました。

新規なモノへの受容態度

徳川家康の外交顧問としての役割を担っていたウイリアム・アダムズも、ヤン・ヨーステンも、元はといえばオランダ船の漂着者でしたが、彼らと比べるとヘンドリック・ハメルら36名の処遇には非常に大きな落差があります。
むやみに処刑したわけではありませんが、おそらく「もてあました」のでしょう。

新規なモノ、これは最初に「南蛮」とよばれたポルトガルから受容しました。ついで「蘭学」の隆盛がはじまり、そして「洋学」へと変わっていきます。この好奇心というか、新規なモノへの受容態度が、朝鮮と日本のその後の歴史の歩みを分けたといっていいかも知れません。

1882年に朝米修好通商条約が締結されますが、その批准のためにアメリカ向かう船は、日本船でした。朝鮮は外洋を渡れる船を持っていなかったのです。曲がりなりにも「咸臨丸」という自前の船を仕立てて、アメリカへ渡った(1860年)日本とのこの差。

しかも、朝鮮には英語を解せる人間がいなかったため、通訳を務めたのは日本人でした。

以上「余話」でした。

この項出所:ライデン大学東京事務所日蘭学会会誌「朝鮮の西学と日本の蘭学ー西洋学の受容に関する日朝両国の比較ー/石田純郎」(https://luot-nrg.jp/pdfs/29-02.pdf



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