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5-8.オランダ国王からの親書

後世、「江戸幕府」の評判

この頃から崩壊までの江戸幕府の評判は、よくないと感じています。「外圧に対して何もしなかった」というのが、定説となっているように思うからです。しかし、事実は異なるのではないか、というのがわたしの意見です。その定説の根拠は、すべて後付けの理屈のような気がしているのです。「何もしなかった」と「何もできなかった」は大きな違いがあります。おそらく実情は後者であり、「したくともできなかった」が正しいのではないかと。とするならば、「何をしたかったのか」「どうしてできなかったのか」を明らかにすることが必要だと思います。そうして当時の舵取りをおこなった、幕府の官僚たちの胸の苦衷を知りたいと考えています。それは、いわば死者歴史)への思いやりといえるかもしれません。とはいえ、調べきれていないもの、誤解するもの、認識違いのもの多数あるとは思いますが。

幕府の依頼を無視するオランダ

さて、本題。
1842年の薪水給与令は、長崎奉行からオランダの商館長に対して「諸国に通知してくれるよう」依頼がありました。商館長からバタヴィア総督、そして本国へ伝えられたそれは、本国においてされ拒否されます。それは、「それが諸国へ伝えられると、日本の「鎖国」政策が廃止されたと受け取られ、日本に外国船が殺到する。そうすると日本国内の政情が不穏になる。それは蘭日貿易の大きなマイナスになる」という理由からです。そして、それを公表する前に「まずは正式な使節を派遣して、「鎖国」政策の危険性を日本に知らせ、その上で公表すべし」となったのです。そして国王からの親書を送ることが決定されました。

オランダは、幕府との貿易特権を維持したまま、かつ、他のヨーロッパ諸国に対しては「決して強欲な国ではない」「他国と通商を開くことを提案した」ということを示すため、幕府へ「開国」をすすめたという事実を残したかったのです(出所:「日本開国/渡辺惣樹」P182)。

親書を起草したのは、シーボルトでした。1830年に帰国したシーボルトは、オランダ国内において「日本開国」を熱心に説き続けており、「アヘン戦争」の結果が、それを実現するかもしれないと思いました。彼の意見書は、植民大臣の目にとまり、彼に国王からの書簡の文面の起草が託されたのです。

開国のすすめ

オランダ国王からの親書の内容は、要するに他国へも通商を開けというもので、それが世界の大勢であり、それに逆らえば隣の清国のようになってしまうという忠告を含んだものでした。

この親書は1844年11月に江戸に届けられ、江戸において翻訳されました。ちなみに、幕府は正式な国交がない国からは本来そういった書簡は受け取らないのが原則です。しかし、今回はその原則を曲げて受領しました。「別段風説書」と併せての「付録」扱いという名目だっと思います。

「開国」が10年遅れた?

親書が届けられた11月時点の老中首座(今でいえば総理大臣のような位置)は、わずか9カ月前に失政(天保の改革の失敗)で、罷免されたばかりの水野忠邦でした。度重なる外国への対応をとりしきれるのは水野しかいないという理由での再登板(12代将軍家慶の命)でしたが、これに対しては、老中であった阿部正弘から将軍に対しての諫言が残っています。

さて、親書を受け取ったあとの水野ですが、「開国に至る外交経緯について/永橋弘价(国士舘大学学術情報リポジトリ)」によれば、水野はこの評議のとき、「世の大勢を鑑み、威嚇されて開国されるより、この際オランダ国王からの勧めを受け入れて自ら開国しよう」と居並ぶ老中たちに諮ったとされています。賛成するものは誰もいません。将軍の前での御前会議でも同様の意見を述べますが、そこでも将軍をはじめ皆が彼の意見に賛成することはなく、水野は「鎖国と決定する以上は、金輪際『和』の一文字は口にしないでもらいたい。果たしてそういう覚悟があるのか」と声を荒げたといいます(出所:「同論文」)。この時、水野の意見が容れられていれば、「開国」は早まったのかもしれません。10年遅れたといわれる所以です。

※水野は前述した「5-1.モリソン号事件」において、多数の強硬派の意見を抑え、議論を「長崎へ再送してくれるよう、オランダに依頼する」にまとめた人物でした。

水野は、そのあと病気と称して登城をやめてしまいます。そしてほどなく、罷免されてしまうだけでなく、2万石も石高を減らされるという処分を受けます。かれは、肥前唐津藩から、幕府内での出世を望むために、自ら国替え(遠江浜松藩へ)を依頼するほど、上昇志向、出世欲の強い人間でもありました。

水野に代わって首座となったのが、阿部正弘(備後福山藩主)。当時27歳でした。阿部は1845年から1857年までの12年間の長き(1855年までは首座)にわたり、日本の舵取りを続けます。阿部がいかなる人間であったのかは、後述しますが、彼の評価には、巷間かなりのブレがあります。特に、旧幕臣からの評価は芳しくありません。

親書への返答

この親書への返答は、翌年7月にオランダ商館長へ届けられました。水野の後を継いだ阿部の時代です。その内容は、謝意を伝えつつも内容は拒絶です。通信は朝鮮、琉球、通商はオランダ、中国と決められているため、他とは交わりを結ぶことはできない、それが「祖法」であると。これが水野が去ったあとの幕府の限界でしょう。これがのちに通商を求めてやってくる外国使節への冒頭の決まり文句になっていきます。

続く




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