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1-16.信長と宣教師たち

ザビエル以後の100年間で300名の宣教師が来日

ザビエルが来日してからのおよそ100年間で来日した宣教師は、五野井隆史氏の「日本キリスト教史」によれば、約300名にものぼるといいます。後に「日本史」を著したルイス・フロイスは1563年に来日し、その後織田信長や豊臣秀吉とも面会を果たし、1597年に長崎で没するまで30年以上日本に滞在していました。彼の記録は、宣教の記録だけでなく、時の権力者であった信長、そして秀吉とのやりとりも含め、政治や社会の動向も書かれており、日本史におけるその時代研究の第一級の資料になっているといいます。

最初の日本語辞典

1577年に僅か16歳でポルトガル船に乗って来日したジョアン・ロドリゲスは、日本語の習得に抜群の才能を示し、1604年から1608年に、全3巻の「日本大文典」、ついで1620年にはそれを日本語初学者向けにまとめた「日本語小文典」を著しました。彼もまた、日本滞在期間は30年以上に渡ります。

前者には、日本語の文法の詳細だけでなく、方言や敬語、詩歌までも紹介されていたらしい。後者は、1632年にそれを元にした「日本文典」が別の宣教師ディエゴ・コリヤードによって、ローマでラテン語により刊行されています。ついで、1738年にはそれを元にした「日本語文典」がメキシコにおいてスペイン語で訳されて刊行、1826年にはそれがフランス語訳となって刊行され、ヨーロッパにおける日本語学習、日本語研究の礎となりました。(出所:「日本語はしたたかで奥が深い/河路由佳」Pⅰ〜ⅲ)

信長と宣教師たち

フロイスは、それまで許可されていた京都での布教が、仏教勢力の働きかけによって朝廷から禁じられて京都から堺に移ったころ、1569年に初めて信長と会いました。当時の信長は、「天下布武(てんかふぶ=天下に武を布(し)く)」を決意した頃だと思います。信長はフロイスに朝廷から何を言われていようと、京都での布教を許可するといいます。フロイスは大喜びしたに違いありません。姉川の合戦(1570年)の前年ですので、まだ彼の「天下布武」はその端緒についたばかりですが、信長は、朝廷の意向を無視できるほどの力を持っていたことになります。

信長は、彼ら宣教師に対しては概ね好意的でした。フロイスの他にも、ヴァリニャーノ、オレガンティーノなど多くの宣教師が信長と面会を果たしています。特にヴァリニャーノは、1581年に行われた京都での天皇も臨席した馬揃え(軍事力を誇示するための、今でいう軍事パレード)に招待されてもいます。バリニャーノは1579年、ザビエル来日からちょうど30年後に来日していますが、その際、モザンビーク出身の黒人を同行していました。日本人が眼にする初めての黒人だったと思います。その彼を一目みようと、多くの見物人が集まったといわれています。信長は彼を大いに気に入り、ヴァリニャーノから譲り受けて「弥助」と名付けて、自らの家臣にして常にそばにおいたほどです。初対面の際、家来に命じて肌をこすらせ、汚れではないことを確認させたともいいます。本能寺の変(1582年)の少し前のことです。弥助のその後はわかっていません。

天正遣欧少年使節

また、ヴァリニャーノは1582年に「天正遣欧少年使節」とよばれる4人の少年を長崎から送り出しています。大友宗麟、有馬晴信、大友純忠の名代として、イエズス会の司祭や修道士とともにマカオ、マラッカ、ゴアを経由し、喜望岬をまわるルートでリスボンを目指したルートでした。4人の少年たちは、日本に設けられていた神学校で学んでいたキリスト教徒でした。これを企画実行したのがヴァリニャーノでした。彼らは3年後の1585年にローマ教皇に拝謁します。時のローマ教皇は彼らに最高の待遇でもって迎え、現地では日本ブームにもなったらしい(出所:「石川同書」P63)。東洋における宣教の成果を表すことと同時に、対抗するプロテスタントに対してその力を見せつけることがその目的でした。彼らが帰国したのは1590年、8年の旅でした。

この4人は、伊藤マンショ、千々石ちぢわミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアン。帰国後、豊臣秀吉と面会を果たし、彼らを気に入った秀吉は、そばで働かせようとしたらしいが、司祭になりたかった彼らは、それを断っている。のちの彼らの運命は以下のようだった。伊藤マンショは、司祭になって4年後に長崎にて病死。千々石ミゲルは、1600年に棄教したとも伝えられているが、詳細は不明。原マルティノは、国外追放となってマカオへ渡り、そこで死亡。中浦ジュリアンは1632年、禁教下の長崎潜伏中に捕えられて、「穴吊り」といわれる最も苦痛が激しいとされる拷問にかけられて死亡した(出所:「キリスト教/石川」P66)。
 
のちの結果をわかっているわたしたちからみて、この頃が宣教師ならびにイエズス会の絶頂期だったかもしれません。

その絶頂期に新たな来訪者がやってきます。スペインです。

続く




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