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4-9.ロシア船の来航その2

少し長文になります。

今度は長崎に

1804年9月、2隻の船を率いたロシアの使節ニコライ・レザノフが長崎にやってきました。彼はかつて幕府がラクスマンに与えた信牌を差し出し、今度は通商を求めてやってきたのです。長崎奉行は、かねての取り決めどおりに、上陸させたロシア人たちを完全に隔離した上で、江戸に指示を仰ぎます。翌年3月に、幕府は目付遠山景晋とおやまかげくに(時代劇※「遠山の金さん」こと遠山景元かげもとの父)を派遣して信牌を取りあげた上で、その要求を拒絶、レザノフを退去させました。つまり、半年間も待たされた上に要求が拒絶されわけです。レザノフは激怒したといわれています。
(※昭和生まれなら、知らない人はいない名前だが、今は知らない人が多いのか・・・)

かんたんな日本語ができたレザノフ

レザノフは、極東並びに北アメリカの植民地経営と毛皮交易を目的とした国策会社を設立していました。軍人あがりの実業家といったところでしょうか。彼は日本への帰国を望んだ日本人漂流民と、すでにロシアに帰化して日本語教師となっていた日本人、善六を伴っていました。善六を通じた日露ダイレクトの交渉ができたはずですが、実際はオランダ語でおこなわれました。レザノフは、ロシア文字による「露日辞書」を作成しており、簡単な日本語を話せと言われています(出所:「日本語はしたたかで奥が深い/河治由佳」P69〜七70)。

ちなみに、帰国希望の日本人漂流民、津太夫つだゆうという仙台出身の水主(船員)は、1793年に漂流して、ロシアに漂着しました。ロシアでは前述の大黒屋光太夫とも会っています。レザノフの航海は世界一周を目指してもおり、そこに乗船していた津太夫は、日本人初の世界一周を果たしたとされています。彼の帰国は12年振りでした。

ロシア人の暴行と蝦夷地全域の上知

1806年からその翌年にかけて、ロシア船(レザノフの部下が率いていた)が樺太、択捉、利尻に上陸し、各地で会所を襲撃、略奪をおこなった事件が起きます。レザノフの受けた屈辱への報復でした。その際、ロシアは日本人を連行していきました。連行された日本人のうち、何人かはほどなく解放されますが、「ロシアは日本のどこでも占領できる。通商した方が身のためだぞ」というような恫喝的な文書(国書ではない、現場司令官の暴走)と一緒に返されてきたのです。

幕府は臨戦体制をとり、守りを固め、蝦夷地全域の上地を実施します。それまでの東半分から西を含めた全域を幕府の直轄として、主に東北諸藩からの兵を常駐させたのです。択捉、国後までも南部、津軽の両藩士が常駐することになりました。他に、久保田、鶴岡、仙台、会津の四藩も出兵を命じられました。また、それと同時に、東北諸藩に命じてあった沿岸警備の状況を視察しました。沿岸警備の発令からくたっ200年近く経っており、その際に設置された遠見番所はほとんど機能していませんでした。
(極寒の地へ派遣された諸藩の藩士たちは厳しい寒さとどう戦ったのだろう。おそらく常駐することだけでも死者がでたはずである)

また、「ロシア船とわかった時点で打ち払え」というロシアを対象に限った打払い令が出されます。しかし、この打払い令は一度も実行されることがありませんでした。江戸からの指示に対し、「そんなことは現実的に不可能だ」という現場(現地奉行)からの意見書が残されています(出所:「幕末/上白石」P76)。

ゴロウニンと高田屋嘉兵衛

1811年には、国後島にロシア船が測量を目的にやってきました。松前奉行の指示により、警備藩兵が上陸した艦長ゴロウニン(海軍少佐)ら7名を捕えます。副艦長リコルドは、何とかゴロウニンを取り戻そうと砲撃を加えて、彼の奪還を試みますが成功はせず、深入りを避け、一旦引き下がりました。ゴロウニンは松前まで護送、監禁されることになります。

リコルドは、帰国後、ゴロウニン救出のための艦隊派遣を要請しますが、当時、ロシアは対ナポレオン戦争(1812年)の最中で、極東どころではなく、リコルドは、自らゴロウニン救出の行動を起こします。

リコルドは、択捉周辺で商人として活動していた高田屋嘉兵衛を捕まえます。人質の交換を目論んだからです。そして嘉兵衛から情報を聞き出すとともに、嘉兵衛の進言によって、1806年の事件は、ロシア国の命令によるものではないという正式な文書を作成するのです。そして、1813年に嘉兵衛を伴って国後へやってきました。交渉の結果、ゴロウニンと嘉兵衛らの交換がなされ、緊張状態が解けるのです。幕府も嘉兵衛の進言により、円満に解決できたことに胸をなでおろしたと思います。

日本幽囚記

2年半もの間、日本に留め置かれたゴロウニンですが、その大半は牢獄暮らしではなく、与えられた屋敷での軟禁生活でした。幕府は、彼を教師としてロシア語通詞を養成したほか、間宮林蔵(間宮海峡の発見者)なども、彼を訪問していました。教えを乞うためにです。彼は日本での滞在を「日本幽囚記」として1816年に出版し、これはアメリカのペリーも、のちに日本研究のために読んだと言われています。

「日本幽囚記」を読んで、日本人および日本に興味を持って1872年(明治5年)に来日したのが、ニコライ・カサートキン(ロシア正教会の司祭)で、彼の名前は神田駿河台のニコライ堂に残っています。また、高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」の主人公です。「日本幽囚記」の中で、ゴロウニンは日本の前途に対して、こう著しています。

もしこの人口多く、聡明犀利で、模倣力があり、忍耐強く、仕事好きで、何でもできる国民の上に、わが国のピョートル大帝のような王者が君臨したならば、・・・・その王者は多年を要せずして、日本を全東洋に君臨する国家たらしめるであろう(後略)」(「復刻版ゴロヴニン日本幽囚記(上)kindle版/井上満訳」P二一/現代かな使いに改めた)。彼が日本の未来を正確に見通していたことに驚くほかありません。

次回は「幽囚」に的を絞った余話を書きます。

タイトル画像出所:「千代田区観光協会/ニコライ堂」https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/470


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