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9-13.カッテンディーケの見た日本

カッテンディーケは日本、並びに日本人にどんな印象を抱いていたのでしょうか。それらを少し、紹介していきます。

日本人に対して

「日本人は物解りは早いが、かなり自負心も強い。我々のしていることを見て、直ぐさま他人の助けをらずともできると思い、その考えの誤りであることを諭されても、なかなか改めようとはしない。その上、非常に頑固で、陳腐な観念にコビリついている。だから我々はすること為すこと、日本人は、所詮その制度の殻から、諦めよく蝉脱せんだつすることのできない人間であることを知った。しかし、その日本人も、今や旧制度を棄てることに決し、まことに緩慢ながらも、一歩一歩と前進を続けている。そうして我々が日本に到着して以来の前進の足どりは、実に大きなものであった。」(「長崎海軍伝習所の日々/カッテンディーケ著・水田信利訳」P30〜31)

1858年の11月には、「その入港ぶりたるや、よほど老練な船乗りでなければできない芸当である。船と船との間に錨を卸したりする大胆不敵な振舞いをやってのけた。彼等は実に測り知れない自負心を持っている(「同書」P133〜134)。」とカッテンディーケに書かせたほどの腕前を持つほどになっていたようです。

幕府海軍は、日本人艦長の指揮下で1857年春には観光丸(スンビン)で、長崎から江戸の航海を成し遂げ、1858年2月には、日本人艦長と乗組員だけの力で帆走船で江戸までの航海を果たしています。

「一体、ヨーロッパ人と殆ど無交渉に暮らし、海軍軍事に関する科学は全然知らず、また軍人精神も彼等の風俗習慣とは全然違っていることを知らないような国民が、僅か4カ年の間に戦闘海軍を創設しようなどと望むのが、そもそも余り欲が深過ぎるとも言える。しかし彼等がそればかりの短期間に、4隻の蒸気船をもって、何の故障もなく多大の効果を収めて自ら満足し、今後は外国人の助力を借らずとも、やって行けると思うまでに上達したのに対し、むしろ驚嘆せずにはいられない(同書P185〜186)。」

また、彼と一緒に来日したヘンドリック・ハルデス指導のもとに建設が始まった「長崎製鉄所(のちの三菱重工業長崎造船所)」についても「日本に一大価値を有することになろう」とその未来を予想しました。長崎製鉄所は1861年5月4日に完成、25馬力の蒸気機関で工作機械20台を稼働させました。名前のとおり、当初の目論見は兵器生産に欠かせない製鉄所だったのですが、実際は艦船の修理をおこなう造船所として機能するようになりました。ここが、のちに戦艦大和の同型艦武蔵を建造することになります。

勝麟太郎について

勝については、「オランダ語をよく解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも、彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。しかし、私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかを直ぐ見抜いてしまったのである。すなわち我々のお人好しを煽て上げるという方法を発見したのである(「同書」P84)。」と記しています。

榎本釜次郎(武揚)について

榎本については、「例えば、榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛治工及び機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の優れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る(「同書」P85)。」と手放しの褒めようです。

榎本は幕臣とはいえ、士官教育対象者ではない聴講生扱いだったため、このような現場仕事を熱心に務めていたわけですが、それがカッテンディーケを感心させたわけです。伝習生の中には、自らが望む教科だけを熱心に受講し、それ以外をやらない、もしくはカッテンディーケのいう「旧制度」に縛られて、現場仕事を厭う者もいたらしく、それを矯正させることが教官の悩みのタネだったのです。

カッテンディーケは、実に幅広い階層の日本人と接することができ、福岡藩、佐賀藩、薩摩藩へも招かれ、九州に限られますが、広く日本の様子を見ることができました。

次回、もう少し彼のみた日本の姿を紹介します。

続く


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