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2-4.新たな挑戦者

ポルトガルとスペインが参入したアジアのネットワーク、そしてアメリカ大陸とヨーロッパ、アジアを結んだネットワーク。ここに新たに参入してくる国が出てくるのも当然のことだと思います。そうして日本にやってくるのがオランダ、イギリスでした。正確にいえば、それぞれの貿易会社が中心となりますが、それぞれオランダ東インド会社、イギリス東インド会社としてよく知られていると思います。それらが、日本にやってくる背景をみてみます。

オランダという国

オランダは長くスペイン王の支配下にありました。オランダがスペインからの独立を求めた戦争は、1568年に始まり、1581年に北部が独立を宣言します。その原因は宗教的なもので、カトリックを強要したスペインに対し、それを拒んだプロテスタントのオランダの争いでした。最終的な戦争の終結は1648年にオランダの正式な独立が承認されるまで続いていたので80年戦争ともいわれます。

この頃のオランダは、ヨーロッパにおいて北部イタリアと並んだ工業国でした。工場制手工業化されていたフランドル地方の毛織物工業を軸として、各種の工業が発達しており、さらにはスペインを追われたユダヤ系商人や、フランスから逃れてきたユグノー教徒(フランスのプロテスタントはこう呼ばれた)など、カトリックの圧迫を受けて逃れてきた商人の資金や技術が、対カトリックの反抗の砦であったオランダ、アムステルダムに集まってきていました。そうして、元々優れていた造船と操船の技術、それに裏打ちされた海運業が盛んであった(バルチック海からイベリア半島にかけて、多くの商品を運んでいた)ことが、ポルトガル、スペインに続いてアジアの海へ乗り出すことのきっかけにもなりました。

オランダのアジアへ向けての初航海

そのオランダが、喜望峰を回って東インドへ初めての航海に出たのは1595年。15ヶ月かけてジャワ島西部の港町バンテン(イスラム系のバンテン王国、現インドネシア共和国内)へ到着しました。オランダへ戻ってきたのが1597年で、航海途中で1隻の船を失い、船員も当初の240人から87人にまで減少したが、持ち帰った商品を売った結果、出資した人々に損はでなかったといわれています(出所:「東インド/羽田」P79)。そうして、オランダの船団がアジアの海へ多数進出してくるのです。その数は、その後1602年までの僅か5年間で15船隊65隻にものぼっています。一方で、1591年からの10年間でポルトガルがアジアへ送った船は46隻にすぎませんでした。

オランダ東インド会社設立

オランダは、それまで北海沿岸に拠点を持つ貿易会社やユダヤ系の商人、金融業者がアムステルダム、ロッテルダムなど複数の都市に存在しており、それぞれが北海沿岸での貿易をおこなっていました。アジアへの初航海を担ったのは、8社あった別々の会社です。しかし、それらは1602年にはひとつにまとめられて「オランダ東インド会社」が設立されます。この会社には政府から特許状が与えられて、オランダと東インド間の貿易の独占権、並びに東インドで拠点(要塞)を建設する権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、現地の支配者と条約を結ぶ権利などが与えられました。ここまで多くの権利が与えられてはいるが、国営の会社ではなく、民間の会社であり、その目的はあくまでもアジアの豊富な物産を手に入れて、利益をあげるためであって、領土的野心をもっていたわけではありません。

この会社は現在の株式会社の資本形態と酷似しており、集められた資本(=出資金)は、航海ごとに精算、利益配分がおこなわれるのではなく、10年間据え置かれていました。集まった資本をどのように使うかは、会社自身の決定事項でした。とはいえ、都市単位に置かれた支部の出資者の中には、都市の有力な政治家も含まれていた他、会社役員はオランダ議会への忠誠や、帰還した船隊の政府への報告義務など、いわば半官半民の会社であったともいえます。

続く

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