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3-3.統制システム(「鎖国」)の完成

「長崎」が担ったもの

その「鎖国」の完成は、教科書ではポルトガル人を追放した1639年とされています。前述の4か所(蝦夷、対馬、薩摩、長崎)のうち、長崎以外は、家康の時代にそれなりに整えられていたのに対し、長崎だけは家光の時代に固まりました。また、長崎以外が大名(藩)によって管理が担われていたのに対し、長崎だけは幕府の直轄でした。これは、他の3か所が「つながる」ための装置だったのに対し、長崎のみは「守る」ための装置だったからです。

何から「守る」のか。それはポルトガルやスペインといったカトリック勢力のもたらすもの、キリスト教、貿易、領土の獲得を一体とした対外進出の動きからです。つまり、「鎖国」という装置は、ヨーロッパという仮想敵に対してのものだったのです(出所:「オランダ風説書/松方冬子」P10)。

島原の乱がよほどこたえたのでしょう、長崎奉行は、オランダ商館長に対して、ポルトガル、スペインの不穏な動きがあったら、些細なことでもすぐに知らせるように命じていました。これが「オランダ風説書」(後述)として、続けられるようになります。つまり、ペリー艦隊の来航前後に初めて仮想敵を認識したわけではなく、それより約200年も前から、日本をおびやかすものを認識していたことになります。

幕府が正式に国交を結んでいたのは、朝鮮、琉球の2カ国のみで、それ以外とは正式な国交はなく、あくまでも通商上の付き合いしかなかった。正式な国交を「通信」とよび、商売上の関係しかないものを「通商」とよんだ。したがって、オランダは単なる「通商」の相手であった。

出島という軟禁場所

ポルトガル人の追放後、それまで平戸にあったオランダ東インド会社の商館は、よく知られているように出島とよばれる完全な隔離場所へ移されます。出島は、そもそもポルトガル人をはじめとするキリシタンを隔離するために1636年に作られた居留地でした。それは、長崎の有力商人25人の出資によって築かれた人工島(扇形の形状で面積約1.5ヘクタール、野球のグラウンドとほぼ同じ広さ)です。1本の橋によって、長崎市中と結ばれていました。ポルトガル人の完全追放後の1641年に、空いたそこに移されてきたわけです。オランダ人は賃料を払い、基本的にそこを出ることは一切許されず、日本人も自由にそこに出入りすることはできませんでした。軟禁状態といっていいでしょう。

不自由一色であったわけではない

とはいえ、市中と出島をつなぐ橋に建てられた「禁制」の高札には、その第一条に「傾城之外女入事」と記されており、「傾城けいじょう(遊女のこと)」の出入りは禁制外でした。出島のオランダ人は、妻子の滞在が許されなかったための幕府の温情でしょうか。1ヶ月の遊女代が27日✖️遊女の単価で計算された請求書も残っており、ほぼ毎日だった記録が残っています(「阿蘭陀通詞/片桐一男」P252)。

このことから、彼らの暮らしぶりは、不自由と制限だけに塗りつぶされてはいなかったと思います。商館での宴席だけでなく、日常の食事の席にも、遊女がそばにおり、同棲も許されていました。「かぴたん部屋建替絵図」には、風呂、台所付きの「遊女部屋」があったことがわかっています(出所:同書P253〜4)。

続く


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