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2-5.新たな挑戦者その2

イギリス

イギリスはどうだったでしょうか。この頃(16〜17世紀初頭)のイギリスは貧しい二流国だったといっていいでしょう。人口も400〜450万人程度でしかなく、外貨を稼ぐ手段は羊毛と毛織物、または沿岸で豊富に獲れる魚程度、それらを売ってもたいした利益にはなりません。そのため、どこに活路を求めたかというと、国を挙げての海賊行為だったのです。しかも、「海賊」を正当化するために、「探検家」「航海家」「冒険商人」といった言葉でそれを置き換え、王室がおこなった海賊行為を正当化してもいます。海賊で有名なのがフランシス・ドレークで、彼はマゼランに次いで世界一周を成し遂げた人物としても知られていますが、彼は当時のエリザベス一世の大のお気に入りの人物でした。彼が莫大な富を王室にもたしたからです。年間の国家予算の3倍にもあたる金額をイギリスにもたらしたこともあったそうです(出所:「世界史をつくった海賊/竹田いさみ」P19)。

フランシス・ドレークが荒らし回った海域は、主にカリブ海。そこで多数のスペイン船やポルトガル船を襲撃のターゲットとしていました。ちょうど映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界です。

アジアへの初航海

そんなイギリスが、ポルトガルやスペインのアジア貿易の成功を耳にして、自らもそれに乗り出すようになります。そのために作られたのが「イギリス東インド会社」で、オランダのそれより1年早い1601年に設立されています。1回の航海ごとに出資金が集められ、航海が終わると、出資比率により元本と利益が出資者に戻される方式で、オランダとは異なりこれまでのポルトガルやスペインのやり方と同様でした。こちらも、主体はあくまでも商人や金融資本家たちであり、国王はそれを認可して貿易の独占権を与えたにすぎません。イギリス東インド会社の初航海は1601年、4隻に500人以上の乗組員、110門の大砲を備えた船隊が東南アジアを目指しました(出所:「東インド会社とアジアの海/羽田正」P83)。スマトラ島、ジャワ島へ寄港し、その2年後1603年に4隻全てがイギリスに帰還しています。以降、南シナ海だけでなく、東シナ海にまで進出してくるようになるのです。

ちなみに、イギリス東インド会社設立後、最初の10年間の利益率は155%だったといいます。(出所:「東インド会社とアジアの海/羽田正」P83)

こうして、オランダ、イギリスそれぞれの東インド会社が、ポルトガルとスペインの鎖を破っていくのです。

続く


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