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9-6.余話として(下田での出来事)

アメリカ商船の下田来航

1855年3月、プチャーチンらディアナの乗組員が、下田や戸田で足止めされている頃、下田にアメリカ人商人の商船カロライン・フート号がやってきました。アメリカ人商人6人、その家族5人が乗っています。彼らは、「日米和親条約」のアメリカ人の居留権や交易を拡大解釈し、箱館において捕鯨船相手の船用品店を開き、かつ日本物産のアメリカ輸出を目論んで一儲けしようとし、その途中下田に立ち寄ったのです。

和親条約の締結が1854年3月。7月にそれがアメリカ国内のニュースになって知られると、すぐに行動を起こしたのでしょう。彼らの商魂はたくましい。

帰国のチャンス

プチャーチンは、その商船の下田来航を知ると、その商船を借り上げるのです。それで、帰国の途についた乗組員もいました。下田からカムチャッカ間の往復期間約3ヶ月、アメリカ人商人とその家族ら11名は、下田の玉泉寺に滞在しました。ちなみに、長崎の出島においても、女性の滞在は一切認められていなかった頃です。もちろん、下田奉行も江戸も困り果てたことは言うまでもありません。とはいえ、追い返すこともできず、プチャーチンに押し切られたかたちになったのでしょう。

滞在した1人の夫人が絶世の美女で、「要望美麗、丹花の唇、白雪の肌、衆人目驚かし、魂を飛ばす(出所:「下田開国博物館HP」)」と称され、大評判になったらしい。一目その美女を見ようと、大騒ぎになったのです。

アメリカ人商人の試みは拒絶され、彼らは帰国を余儀なくされました。

はた迷惑

その後アメリカへ帰国した商人らは、連邦裁判所に日本政府に対する事業上の損害賠償請求を提出し、国務長官に抗議文まで送ったようです。新聞もこうした問題をとりあげて、大統領に日本政府に対して行動を起こすよう要求しました(出所:「明治維新史/石井寛治」P48)。

アメリカ人商人の勝手な拡大解釈が原因ですから、日本からしたらいい迷惑です。のちに(1856年8月)に下田にやってくるアメリカ領事タウンゼント・ハリスは、こうしたアメリカ国内の声を背景に派遣されてくるのです。

徳川斉昭のとんでも意見

ちなみにですが、ディアナの沈没を知った徳川斉昭(海防参与として、幕府の対外政策の顧問のような立場にあった)は、「ロシア人を一ヶ所に集めて皆殺しにせよ」という、意見を2度にわたって老中阿部正弘へ上申したらしい(出所:「石井寛治同書」P38)。さすがに、阿部によってたしなめられていますが、あまりにもひどい。

わたしは、のちの斉昭の行動からみて、彼が幕末のこの時期に存在していなければ、日本の歴史は違った歩みとなったと思っています。害悪しか残していない、そんな印象を持っています。

会社の自分の事業部に、社長から直々に据えられた顧問、指揮命令権は持っていなかったとしても、部署の方針に悉く反対した意見書を出す、しかもそれだけではなく、他部署の人間をも巻き込んで声をあげる人間がいる。そんなことを想像してみてください。さらに、その顧問は会社の創業者の親戚なのです。

幕府の官僚たちも相当にその扱いについて苦労したと思います。徳川斉昭については、いずれまた書きます。というより、書かざるを得ないのです。

終わり

タイトル画像:出所「下田開国博物館HP /下田に滞在の亜人の美女(https://www.shimoda-museum.jp/ippin/2021/02/01/1823/)」


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