見出し画像

1-9.そこで目にしたもの

アフリカ東岸域の大きな市場

このガマの航海の内容を表現するなら、傍若無人で非道な海賊行為といってもいいでしょう。彼らはムーア人(アラビア語を話すイスラム教徒の意味)を全て敵としてみなして、常に銃火器で脅し、その力を見せつけて航海に必要な水や食料などを奪い去りながら航海をつづけたらしいのです(出所:「東インド会社とアジアの海/羽田正」P31〜P35(以下「東インド/羽田」と記す))。

彼らが海賊行為をはたらいたアフリカの東岸域の各地には、そこでしかない特産品が多数集まっていました。シナモン、クローブ、ナツメグ、生姜や胡椒はインド南西部や東南アジアから、馬はアラビア半島、金や象牙はアフリカ東海岸、絹織物はペルシャ、綿織物は南東、および北東のインドなど。それらがこの海域の沿岸都市に集められて、大きなマーケットとなっていたのです。それが、ポルトガル人が目にしたものでした。

「貧しさ」の認識

この時代の貿易は物々交換が基本でしたが、この地域に初めて姿を現したポルトガル人は、そこで交換すべきものを持っていたのでしょうか?これについては面白い挿話があります。ガマがカリカットの王との面会が果たされた後のことです。

「翌日、ガマは宿舎で王への贈り物を調えていたが、訪れた王の役人やイスラーム教徒の商人は、並べられた品物を見て笑い出したという。布地、1ダースの外套、帽子6個、珊瑚、水盤6個、砂糖1樽、バターと蜂蜜1樽。『これは王への贈り物などではない。この町にやってくる一番みすぼらしい商人でももう少しましなものを用意している。もし王に何かを求める気なら、金を贈らないと。』彼らがこのように語るのを聞いたガマは動揺しながらも『私は商人ではなく、大使なのだ。これはポルトガル王からではなく、私の贈り物なのだ。王が贈り物をするとすれば、もちろんこれとは比べものにならないくらい豪華なものになるはずだ』と苦しい言い訳をした。」(「東インド/羽田」P45)

インド洋海域での物(=富)の豊かさとヨーロッパの貧しさを物語っているように思えます。ガマは、それでもカリカットの市場で持ってきたものを香辛料と交換し、1499年にポルトガルに持ち帰っています。出港から2年の月日を要したこととなります。3隻のうち帰港できたのは2隻だけでした。手に入れた香辛料を売って、その2年の航海と失った船の損失を補うに足る利益が手に入ったと言われています(出所:「東インド/羽田」P49)。

インド往復航海成功が与えた衝撃


「これでヴェネツィア人はレヴァント(東方)貿易をやめて、漁師をやらねばならなくなるだろう」(「東インド/羽田」P49)

リスボンに滞在していたフィレンツェの商人は、ポルトガルのインド往復航海の成功を、故郷への手紙でこう記しています。ポルトガルがインドと直接結ばれたことは、衝撃的なニュースだったのです。ガマがインドから直接香辛料を持ち帰る前までは、それは、インドからペルシャ湾、あるいは紅海へ船で運ばれ、シリアやエジプトから今度は地中海を経てヨーロッパへ持ち込まれていました。多くの商人が介在し、商取引の際には税金もかけられ、ヨーロッパ(西ヨーロッパ)が手に入れるまでには大変高価なものとなっていたのですが、誰にも介在させずにその流通経路を獲得したことになったのです。ヨーロッパへの輸入をほぼ独占していたヴェネツィア商人が苦境に陥ることも当然です。

地中海域から西ヨーロッパへ

かつて栄えたヨーロッパは、ギリシャ、ローマ帝国、ともに地中海域であり、ルネサンス(14〜16世紀)も地中海の諸都市国家から興りました。すなわち、ヨーロッパの中心は地中海域にあったのですが、これ以降、徐々にヨーロッパの中心はそこから、西ヨーロッパに移っていくようになります(それが現代社会にも続いている)。なぜ、地中海域だったのか、その理由はもうおわかりでしょう。繁栄をもたらすものは、彼らにとっての東方(レバント)、つまりアジアとつながっているか否かだったからです。

続く

タイトル画像出所:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vascodagama.JPG







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?