10-12.下田奉行の苦衷
残るは江戸出府問題
さて、下田奉行らは条約交渉をようやく終結させたにもかかわらず、ハリスの出府にかかわる強硬な意見に辟易していました。将軍名による正式な委任状をたてに、ハリスに大統領親書を渡してほしいというのですが、ハリスは応じようとしません。「彼らは全く呆然とし、なすところを知らぬ有様である。」(「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一」P270)とハリスは書いています。
一方そのハリスは、下田着任以来10ヶ月以上過ぎても、本国からの一通の手紙も受け取っておらず、いわば投げ捨てておかれている状態を嘆いています。
「私は粉、パン、バター、ラード、ベーコン、ハム、オリーブ油を切らしている。そして、実のところ、二ヶ月以上もあらゆる種類の外国食糧を切らしているのだ。私は米と魚と、極めて貧弱な家禽とで食生活をつづけている。(中略)おお、アームストロング提督はどこに、何処にいるのか。」(「ハリス日本滞在記(中)」P272)
会談の様子
七月八日の奉行らとハリスとの会談模様をみてみましょう。
ハリス:親書は直接大君へ渡すよう命じられているので、お二人に充分な権威が与えられていることはわかるが、渡すことはできない。
奉行 :我が国には我が国の制度がある。大君へあなたが直接渡すことはできないのだ。ペリー提督が来た時には、我らの権威あるものがそれを受け取っている。我らはその資格と権威が与えられているので、渡してもらいたい。
ハリス:いかように言われようとも、私はそれを大統領から命じられている以上、あなた方に渡すことはできない。ペリー提督の時は未だ条約が結ばれていない。今は条約があるのだから、これまで通りのことを言われても承服できない。
奉行 :言われることはもっともだが、我々も大君から格別の全権を渡されているのだ。我々が受けとる以上のことはできないのだ。
ハリス:聞き入れてもらえないのならば、わたしはそれを本国へ報告するまでである。その結果大統領が思うような処置をとることは、われらの権利である。直接渡したい旨、これまで何度も申し上げている。それでもなお、認めないのか。
奉行 :我らが受け取るという以上のことを答えることはできない。それを大君から命じられてもいるのだ。
ハリス:あなた方の国は、国力も人々の才も立派な国であるのに、たかだか私一人が大君へ拝謁するくらいの小事を、理屈をつけて拒むのは一体どういうわけなのか。私にはさっぱりわからない。大統領からの親書は、あなた方の国のために誠実をつくした内容であるのに、それを拒むのであるならば、それは和親の義に悖ることで、不快感を抑えることができない。
奉行 :あなたのお国の我が国へ義心、深切については、我らも大変忝く思っている。だから、大君は我らに格別の権威をお与えになったのだ。あなたが江戸へ参りたいということ、先の協約で七里の境を越えた外出については、あくまでも緊急時とかぎって同意したばかりではないか。江戸までの道中何が起こるか分からず、それは政事にも影響を及ぼしてしまう。このこともよく考えてほしい。
ハリス:なんと言われようとも、あなた方に親書は渡せない。これ以上、議論を続けても仕方ないことだ。
(出所:「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一」P277〜279/現代語に意訳)
再び江戸へ
奉行らの苦衷がわかります。この会談の翌日、奉行のひとり井上清直は急遽江戸へ向かいました。何を言っても応じないハリスを「もう我らの手にはおえない」と思ったのかも知れません。そうして堀田に意見書を提出しました。
「ハリスは通商条約の締結を提議してくると考えられる。ハリスにとどまらず、今後他国もそれを要求してくることが推測できるため、ハリスの出府時期に対する回答を当分延期し、現在貿易取調べで長崎へ行っている水野(忠徳)、岩瀬両名の帰府をまって、貿易ならびに新港の開港を決定、条約を締結すべきである」といった内容です(出所:「日本開国史/石井孝」P233)。
水野・岩瀬の両名は5月から貿易に関する調査のため、長崎へ出張中だったので(後述)、彼らの戻りを待ってから条約交渉を開始すべきだと、引き伸ばし策ではありましたが、井上は最早出府も、条約締結も避けられないと感じていたのです。
再度の評議
井上の上申を受けた堀田は、それを早速評議にかけますが、これまで同様に海防掛の目付系からは出府許可、通商開始への積極的賛成、勘定系からは出府は不許可でありましたが、通商開始に関しては消極的賛成で長崎での調査終了後に回答と、両グループとも井上の上申にほぼ沿ったものでした。
堀田は、8月21日になって、まずは下田奉行がハリスの伝えようとしている重大事件を聞き出し、その上で出府時期を決める。貿易開始ならびに新港開港の期日はなるべく決めない方がよいが、やむを得ない時は18ヶ月以上を期限とする旨を指示しました(出所:「日本開国史/石井孝」P235)。
要するに、条件付きで出府は許可するが、できるだけその時期は引き延ばせということです。また、堀田はハリスの出府・登城に関わる具体の問題点(江戸へのルート、警備、宿泊場所、拝礼方法など)を調査するよう命じています。同時に、京都並びに御三家へどう知らしめたらよいかの検討も命じました。
儒者筒井、古賀の意見書
ここにおいても、朝鮮使節の応接に経験のある当時78歳の筒井政憲は、もはや時代は大きく変わり、旧法に縛られるべきではないとし、「万国互いに通親の義は天意の然らしむ処か」と述べ、「異国とても、誠実の言を呈し候上は、御親睦遊ばされ候廉を施され候」と締め括った答申をおこなった(出所:「近世日本国民史堀田正睦(三)/徳富蘇峰/Kindle版」P106〜107)。重ねていうが、まさに驚異の78歳であった。
またさらには、儒者古賀謹一郎も筒井同様に積極的にハリスの出府を迎え入れるよう上申している。古賀曰く、「外国から官吏を受け入れるだけでなく、我が国からも外国へ派遣すべきである」と述べ、「わずか五、六輩の異国官吏を御もてあまし相なり候ようにては、八方万国の外夷、いかが御取り扱いなされ候や。右等の類は、御度量内に容れおかれ候て、此方にて引き回し(指導)候よう、実もって専要と存じ奉り候」(「幕末外交談一/田辺太一著/坂田精一訳・校註」P69)と上申している。
なんとも見事な意見だと言うほかはなく、幕府内の「儒者」というものを再認識せずにはいられない。古賀は、のちに明治政府に仕官をすすめられたが、それに応じず、明治17年(1884年)に69才で死去した。
続く