100分de名著 ハイデガー『存在と時間』感想
序論
学生時代、私は哲学科に所属し、ハイデガーを主たる研究対象としてきました。
いや、「研究」というのは誇大表現ですね。また、自分自身、哲学を「専門」にしているとは呼び難いです。
とはいえ、大学卒業後も彼の著書を断続的に読み、彼が考え続けてきたことが他の哲学者たちに比べて自分にはしっくりする感じがあるので、私はハイデガー学徒の一員という意識があります。
4月にNHK-Eテレ「100分de名著」で『存在と時間』が取り上げられました。これを視聴し、遅まきながら感じたことを書き連ねてみます。
概観
指南役の戸谷洋志 先生は、誠実さが感じられる新進気鋭の学者という印象です。
ところどころで、「~だと思います。」と断定を避ける表現を用いていることにも好感が持てます。
「頽落」の3特徴のひとつ「曖昧さ」の解説で出された具体例
が、非常に分かりやすくて笑ってしまいました。先生が普段接しているであろう学生たち、場合によっては同年代の友人たちの話し方から着想を得ているのではないでしょうか。(私の下の兄弟もこのような話し方を時々します。)
本書を解説している第3回まで見て、復習にはなりましたが、自分にとっては知っている事ばかりだったため、少々物足りないなと思いつつも、内心ホッとしています。
ホッとしたのは、「自分はこんな基礎的なことも分かっていなかったのか・・・」と恥辱を覚えずに済んだためです。
100分という制限の中で、省略すべき箇所を徹底して、エッセンスの部分だけを視聴者にも分かりやすく解説したという感じです。
また、要所要所で出される伊集院光さんの的を射た指摘・ときに斬新な問いかけも知的好奇心を掻き立てられ、この番組の大きな魅力になっています。
(余談ですが、私の学生時代のギリシア哲学の先生が「伊集院」先生であったため、ここで伊集院光さんを「伊集院さん」と呼んでしまうと、なんだかモヤッとした感覚を覚えてしまいます。直接の指導教員ではありませんでしたが、かなりお世話になったので。)
番組の紹介範囲・構成について
『存在と時間』の内容に即しているのは第3回までとなっており、「先駆的決意性」とそれに絡めた時間性の解説までなされています。おおよそ第二編の第四章「時間性と日常性」までといったところでしょうか。
「名著を解説する」というコンセプトに徹するなら、この先の部分も解説すべきではないかなと思います。
(カントの『純粋理性批判』を番組で扱った時もそうでした。4回目に『実践理性批判』に関する内容が入っているように感じました。)
4回目にハイデガーとナチズムの問題、それが『存在と時間』の中にもその繋がりがあるのではないか、とハンナ=アーレントとハンス=ヨナスを中心にして論じられました。
現代にも通じる問題として論じるにはなかなか面白い観点です。
3.11を受けたSNS上のやり取りから、「責任」や「世人」の問題を浮き彫りにする手法には説得力があります。と同時に、私自身も世人に流されていることを思い出され、曲がりなりにもハイデガーを専門としてきた身には恥じ入るばかりです。
また、番組公式サイトのプロデューサーのこぼれ話も大変興味深い。雲仙普賢岳災害現場におけるご自身の体験にハイデガーの思想を意識するところも、なるほどと思わせてくれます。
「世人」の問題は、やたらと世間体を気にする、みんなに合わせることを良しとする我々日本人には非常によく分かるテーマだと思います。
近代ヨーロッパは、個の確立を訴えてきたので、こういう切り口は皆薄々気づいていながら、学問のしかも哲学の世界で論じられるとは思ってもみなかったのではないでしょうか。
(ヘーゲルが論じる「人倫」もこれにやや近いかな・・・)
第一回で主に解説されたのは、「存在を問う姿勢」「存在(ザイン)と存在者(ザイエント)の違い」「現存在(ダーザイン)」「本来性と非本来性」「世界内存在」でどれも重要な概念です。
やはり大切な用語については、翻訳語だけではなく、原語も併記した方が良いと思います。
ハイデガーとナチズムの問題に関する私見
アーレントたちの批判に対しては言いたいことがあります。
ただし、私の再反論については次の2点に留意してください。
あくまで番組で紹介された部分に対するもの。
スタッフや戸谷先生を非難するものではない。
私はアーレントらの著書を直接は読んでいないので、彼女らの専門家から見れば不十分な意見表明になっている可能性が高いです。
なので、アーレント、ヨナスに対するきちんとした批判にはなり得ないイチ参考意見として受け取ってください。
にも関わらず主張するのは、「『存在と時間』・ハイデガーには、ナチズムと親和性があるのだ」とこの番組を視聴した人が、早急に結論づけるのを防ぎたいがためです。
(早い話が、ハイデガー擁護です。)
以下、番組で紹介されたアーレントたちの主張をざっと要約するとこのような感じになります。
【アーレント】
「世人」から離れた孤独こそが人間らしい生き方
→各個人がバラバラとなり、仲間との連帯ができず、全体主義イデオロギーに支配されてしまう。
【ヨナス】
良心の呼び声は世人の支配からは解放するが、「何を」決意すべききかは教えない。
→間違った選択・ナチスに加担するという決意も擁護してしまう。
【アーレントの提案】
人間の複数性や共通感覚を重視する。
他者と意見を交わすことで初めて自分が何者かが分かることもある。
【ヨナスの提案】
未来への責任も持つべき。
自分自身の本来性だけでなく、赤子・こどもなど次の世代の人たちの本来性も気遣うべき。
人間が個々バラバラの原子のような状態になり、ファシズムに支配されやすい。
ハイデガーに対する批判をまとめるとこんなところでしょうか。
世人に流されることなく、本来の自己に覚醒することからこのような危険性が帰結するというわけです。
しかしながら、もし番組で紹介されたとおりにアーレントたちが考えていたとするならば、率直に言って『存在と時間』の読み込みが足りないのではないか? と疑問を抱かずにいられません。
「世界-内-存在」(=現存在)は、常に他の現存在との関わりの中で存在していることを見落としています。当然、本来性に目覚めた現存在にも他の現存在との関係性が含まれており、独断的な決断をするわけではありません。(という理解を私はしています。)
さらに私の立場をもっとはっきり言うならば、ナチスに参画するのも「先駆的決意」というよりは単に「世人」に従っただけではないかと考えています。
「(ナチ党の)みんながそう言ってるから」「みんながヒトラーに熱狂しているから」という具合に、この場合も「世人」に流されているだけの「非本来的自己」と捉えることができます。
もし、その職務の中でユダヤ人への迫害・虐殺の事実を知り得たら、他の現存在との共に生きる本来的自己がやましさを覚えるはずです。沈黙の中から自分の内なる「良心の呼び声」が聞こえてくるはずです。
敢えてそれを言葉で表すとすると
「お前は、その『在り方』でよいのか・・・」と。
ただ、戸谷先生も指摘されているとおり「では、本来性に目覚めた現存在が他の現存在とどのように関わり合うのか?」をハイデガーは具体的には述べてません。ここに大きな欠陥があり、上記の誤解が生じるのも無理はないかと思います。
私も具体的なイメージはパッと思いつきませんが、他者も自分と同じく本来は「世人」ではなく、ほかの誰とも代えがたいその人の人生を歩んでいるのだという理解に根差した「いたわり」「慈しみ」といったものなのではないかと考えています。
現代では絶滅危惧種的な言葉の「連帯」でもいいかもしれません。
ただ、これらの概念も美しいイメージに引きずられがちなので、できるだけ純度の高い概念を用いるべき存在論・実存論の領域で論じるには少々危なっかしい気もします。
「連帯」ではマルクス主義的解釈に引っ張られそうです。
「人間」という表現を避け「現存在」という言葉で論じてきたハイデガーのことですから、「愛」という手垢にまみれた概念は用いないでしょう。これだけは確実に言えそうです。
イチ哲学徒の助言
さて、哲学を、特にハイデガー哲学をしてみたいと志しておられる学生がいたら、是非ともこの放送だけに満足せず、『存在と時間』にチャレンジしてください。
番組で取り扱ったのは、本当にエッセンスの部分だけなので、「何故そう論じたのか」という筋道の論理まで追っていくと、存在論の理解が深まっていきます。
『純粋理性批判』や『精神現象学』よりは読みやすいと思います。
哲学は難しく、一見すると何の役にも立たないように思えるため、敬遠される学問だと思います。
大学1~2年次の一般教養での哲学でひとまずは十分だと私は思います。
しかし、それでも、100人もしくは200人に1人くらいは「よし、哲学を専門にやってみよう!」と志す人が現れてほしいと私は強く願います。
若干のアドバイス
いきなり『存在と時間』そのものに取り掛かると挫折する可能性が大きいです。
丹念に読んでいけば、前半部分は何とか理解できるかもしれませんが、後半に入るとそれまで出てきた専門用語が縦横に駆使され、前半部分の理解が覚束ない状態ではチンプンカンプンとなります。(私が現にそうです。)
『存在と時間』の入門書・解説書の中には、(こういうことを言うのは気が引けるのですが)つまらないものも結構あります。
私が参考になったのは、マイケル=ゲルヴィンによる解説『ハイデッガー「存在と時間」註解』長谷川西涯 訳(ちくま学芸文庫 2000年)です。
ドイツ語の ”Sein” を英訳するには ”Being” よりも ”To be" の方が適切であるという指摘は大変興味深いものでした。
現存在の実存は、過去・現在よりは将来を重視しているというのが、氏の捉え方でかなり勉強になりました。
とはいえ、この把握が適切なのかは、私の中では考察不足で未だに保留中です。
ハイデガー自身の入門としては講義録の『形而上学入門』がお薦めです。
平凡社ライブラリーから川原栄峰訳で出ています。
(この訳のいいところは、ギリシア語の部分をラテン文字で書いているところですね。これでかなり読みやすい印象です。)
『存在と時間』の読み解く上でのヒントにもなり、彼の哲学的問題の大まかな見通しが立ちます。
ハイデガーの論文・著書はなかなか難解ですが、講義は実に明解です。
(とはいえ、これもある程度根気よく読まないと理解できませんが。)
そのほか、予備知識として持っておいた方がいいものとしては、重要度の高い順に並べると以下の3点です。
どれも大まかなもの、大学1~2年次の講義内容で構いません。
西洋哲学の歴史
ドイツ語の文法知識
古代ギリシア語の文法知識
哲学史を全く知らないと、デカルトのくだり「思惟」「延長」の部分や、科学的な認識の仕方が特殊な認識だと くだくだしく彼が論じている部分が、ピンとこないと思います。
ハイデガーの用語には翻訳が難しいものもあり、訳書によってはドイツ語が併記されていることがしばしばあります。このため、哲学史とドイツ語文法知識は持っておいた方がいいです。
ギリシア語の概念もちょくちょく出てきますので、これも知っておくと有利です。
ラテン語も知っていると尚良いのですが、必須ではありません。(私はラテン語は全く学習したことがありませんが、『存在と時間』をはじめハイデガーの翻訳書はなんとか読めています。)
と予備知識について色々書きましたが、番組で朗読用に用いられていた光文社古典新訳文庫版であれば、ドイツ語・ギリシア語の部分がカタカナ書きの平易な叙述になっており、解説もついていますので、この訳でいきなり取り掛かってもいいかもしれません。
戸谷先生も仰っているように、畑仕事のように毎日少しずつ読んでいけば、『存在と時間』は読破できます。
今回は、ざっとこんなところです。
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