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助けようと思っても助けられない

誰かのお役に立ちたい。助けたい。

わたしに限らず、そう思う人は多いと思います。わたしのような、取り柄もなく、情熱的に何か取り組めることも見出だせない人は、特にそう思うのではないでしょうか。

向き/不向きもあるでしょう。自分からやりたいことが見つかる人、それに寄り添う方が性に合っている人。生まれ持ったタイプだと思っていますが、わたしは、自分発の情熱みたいなものが無いので、自ずと後者となります。

だから、誰かの「役に立った」「助けることができた」という実感が欲しくなってしまうんですね。きっと、自分から湧き出るやりたいことみたいなものが無いから、そこに生きる意味を見出したくなるのでしょう。

こうやって文字にすれば、自分のために(生きる意味を見出すために)、誰かの役に立ちたいだけ……というのが見えてきますが、感覚的にやっていると、気が付かない場合もあります。

今日、あらためて思ったのは、やっぱり自分が「誰かを助けようと思っても、真の意味で助けることはできない」ということ。

その瞬間は、相手のためと心の奥底から思っていたとしても、きっとそれは自分のためなんでしょう。それが問題というわけではないのですが、自分の実感にもつながらないだろうし、結局、解決に向かわないんですね。

もちろん、能力の問題もありますし、んー、たとえば、お年寄りの荷物を持ってあげるのような簡単なことであれば、助けることができるでしょう。でも、たぶん、そういうことじゃない。

いままで、いろいろ誰かを助けようと活動してみました。身内が不治の病を患ってしまったから、そのサポートをしたい。事業を辞めようと思っている経営者の方の会社を再建したいなど。(書いていて話がデカいな……)

その人ができないことでも、わたしにはできることもある。だから、助けようと思うのですが、結局、相手が真の意味で救いを求めているのかどうか……という部分も重要で、そこが噛み合っていないと、結局はお節介なだけということになるんですね。

逆に、助けることができるのは、相手が真の意味で助けを望んでいるときだけ。

誰かを助けようと思うのではなくて、真の意味で誰かから助けを求められたときに、ちゃんと応えられる自分でありたいと思うのです。

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