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全員を幸せにはできない~ホスピタリティー産業から考える~


歴史にみる幸福観

最近ふと思い出したことがある。

高校生の時、漢文や世界史の勉強の中で中国の古典(漢文)や歴史について学んでいたとき、こんなことを聞いた覚えがある。

中国の皇帝や指導者に求められるものは、より多くの民を生かす(養う、幸せにする)ことであり、それが遂行できなければ、その政権なり統治体制は破綻する。

もちろん、その時代その時代において求められることは多様であるし、統治体制の崩壊には様々な内的外的要因があることは歴史が示しているが、民衆の数が他の地域や国比べて圧倒的に多く、加えて革命が頻発していたことも踏まえると、この要素はあながち排除できないのではないか。

古代であれば、農業を発展させ、住む人間全員が食べていくのに困らない暮らしを与えることのできる指導者が支持を集めたであろうし、その後の時代においても、その時その時に求められているモノを提供できることを期待されていただろう。


これは現代社会においても同じだろう。

国民は自分の国を豊かにし、自分たちに豊かな暮らしをさせてくれる国民の代表者を選出するだろう。

*ここでは「幸せであるということ」を物質的(あるいは心理的)に満たされていると定義づけたい。


しかしながら、「より多くの人間を幸せにする」ということは裏を返せば「すべての人間を幸せにすることはできない」と言う意味ではないか。

しかし、ここでは決して難しい政治の話や君主論などについて書きたいわけではない。

よりミクロな視点で、ある具体例を少し考えながら、なぜ「全員を幸せにできない」のかについて考えてみたい。


ホスピタリティー産業の限界

飲食店に行った時のことを想像してみてほしい。

あなたはどういう体験をした時に幸せを感じるだろうか。

早く提供される、店の雰囲気がいい、味が美味しい、安い、家から近い、スタッフのサービスがいい、店のコンセプトがいい、etc…

挙げればきりがないだろう。

果たしてこれらの要素を全て満たしてくれる店というのは存在するのだろうか。

吉野家に行って最高級和牛を食べ、最高級のテーブルサービスを受けることができるだろうか。

高級フレンチに行って、低価格で、ものの数分で食事が提供されるだろうか。

100%あり得ないだろう。

飲食店に限らず、ホスピタリティ産業、すなわち人的接客サービスを提供するビジネスにおいて、世の中すべての人を100%満足できるサービスを提供できるということは不可能に近い。

なぜか。

当然のことだが、人々の欲求が多様であることに加えて、それに対して経営側はビジネス的観点などから何に注力するか取捨選択をする必要があるからだ。

利益率は無視することはできないし、お金を借りている場合はそれの返済をしなければならない。従業員には法的な最低賃金を支払う必要もある。それと同時に、それぞれの店の個性として客に売り出すポイントは多様にあるだろう。


それらをすべて実現できるとしたらそれは、無限に資金があるか、あるいは、ビジネス外にそのコストを補えるだけの収入源があったり、ビジネス自体が趣味であったりするケースがほとんどだろう。

大抵の場合、客側もそれらの事情を理解した上で、完璧な店がいいという希望的願望を持ちながらも、一方で、せめて自分の求めるサービスを提供してくれると期待する店に訪れる。

しかしながら、仮にそうだとしても、満足できる体験を得られなかったという経験は1回や2回あるのではないか。

高級店で素晴らしいサービスを期待していたのに、思っていた通りのサービスを受けられなかった、あまり美味しくなかった。
数分で食事が取れると思っていたら、提供に予想以上時間がかかった。

接客一つとってもそうだ。
高級店でも、いい距離感で、いい意味で放置され、ゆっくり食事や会話をプライベートに楽しみたい人もいれば、スタッフから料理の説明や店のコンセプトなど詳しい話を聞きたい人もいるだろう。

ホスピタリティ産業の特性に加えて、その日その日のあらゆる状況によってイレギュラーが起こるのは必然で(働いてみればわかると思うが)、その皺寄せがいたるところに現れてしまう。

客の満足感、言い換えるなら客の幸せに影響が出てしまう。

また、言ってしまえばビジネス側は基本的に客を選ぶという行為をとることが難しい。価格設定や広告戦略、会員制や出禁などの施策を通して顧客層を定めることはできるが、それでも意図しない客が来るのは必然である。

自分たちが良かれと思って提供している幸せが客に合致するとは限らないのだ。

そのような状況の中ですべての人の要望に応えるということは不可能ではないか。

つまり、まとめると、ビジネス側がターゲットとする特定の客の幸せを最大にすることはできるが、不特定多数の人間全員を100%満足させるサービスを提供することはあらゆる側面において不可能に近いと言うことだ。


さらに別の視点で考えてみたい。

飲食店経営というのがビジネスである以上、従業員の幸せというのも考える必要がある。

従業員が幸せでないなら、彼らのノウハウや知識などのビジネスを継続していく上で必要な資産が離職などを通してなくなっていってしまう可能性があるからだ。

では従業員をどのようにしたら幸せになるのだろうか。

これもまた多様であるはずだ。

高い給料が欲しい、まとまった勤務時間を確保したい、ある程度の役職に就きたい、裁量が欲しい、良い職場環境。

これらの様々な「幸せ」を全て満たすこともとても大変なことだろう。

個人的に、特に給料面に関していえば、シェフなどの職業の平均年収というのは実際低く、その労力と提供する価値に対して極めて低いと感じる。

そのような実情がある以上、おそらく、内的、外的にもホスピタリティ産業において完璧に「幸せ」を提供できているビジネスというのはかなり少ないはずだ。



<おまけ1>

僕は今、オーストラリアに住んでいるのだが、この国にはcasualという雇用形態がある。

これがどういうものかというと、full-timeやpart-timeと違って、働く時間数や有給などの保障がなく、解雇に関する事前通知なども必要ない代わりに、時給が高くなっているという雇用形態である。

基本的に多くのレストランやカフェが多くの従業員をこの雇用形態で雇っているのが現状である。

多くのcasualのスタッフを雇って、必要な時間帯のみに3時間程度のシフトで働いてもらい、無駄な人件費を払わずに効率化しているビジネスが多いと感じる。忙しくなければ途中で帰らせるなどして、無駄な時給が発生しないようにしているのだ。

これはCasualだから出来ることである。

つまり、これは、週4-5である程度の時間数を働き、安定した給料をもらいたいという層、多くの場合、最近増加しているワーキングホリデービザの滞在者にとって極めて不都合だ。

ビジネス側はfull-timeやpart-timeを増やして、一人当たりの勤務時間を増やそうとすれば、欠勤された時のリスクが高まり、また、店の忙しさによって簡単に勤務時間をコントロールできなくなってしまう。

物価や家賃などの生活コストの上昇による経済的な圧迫により、外食などの支出は減っている。(調べていないので正確なデータは分からないが、実際に住んでいる肌感覚的に合っていると思う。)

そのような状況ではビジネス側も少しコストに対してシビアにならざるを得ない。

ここでも幸せのジレンマは生まれている。

このようなビジネス側の事情と、特に人材雇用が買い手市場であることも相まって、現在オーストラリアにおいて、ホスピタリティ産業で理想的なポジションで働くには経験やスキルが必須であると感じる。



幸せの多様性

ホスピタリティ産業に関わらず、ありとあらゆる場面において、そこに存在するすべての人間の幸せを100%満たすということは不可能であると感じてしまう。

では、このように全ての人間が幸せになることが困難な状況において、私達はどのような心がけを持つべきなのだろうか。

消極的であるかもしれないが、おそらく、すべての人が「諦め」を持つことではないかと思う。

すべての人を満足させられることはないという諦念をもち、逆に、自分の感じる幸せを同じように感じてくれる人達へ最大限与えること、自分が受け取る場合には最大限の感謝をすること。
自分の感じる幸せが受け取れなかったとしても、それは他の誰かを幸せにしているということを理解すること。

このような余裕のある相手の立場になって考えるという心構えが大事なのではないか。

例に戻るなら、

カリカリして店員に当たったり、感情的な文句をネットに垂れ流したりするのではなく、これは自分に合っていなかったと割り切って、自分が好きな店に行けばいい。

ビジネス側も、幸せの総量を増やす努力をしつつも、すべての人を幸せにしようとして過度な労力をかけるのではなく、それに共鳴してくれるような人間を100%幸せにできるようにサービスを提供したらいい。その上で、もちろん改善のための真摯なレビュー等には向き合う必要がある。

お互いがお互い、すべての人を幸せにすることの難しさを真に理解して、まぁしょうがないよねと割り切って済ませることができればそれが1番良いのではないか。

このような両者の双方向の理解、コミュニケーションが求められていることではないかと感じる。

例に限らず、色々な場面でもこの意識は持っておきたいと思う。


<おまけ2>

みなさんはチップの文化に対してどのような印象を持つだろうか。

アメリカではチップは従業員の賃金構造上、必ず支払うもので、支払いをしない客に対してのサービスの質は著しく低下するらしい。

このようなチップ文化の良し悪しは議論できるとして、僕は「良いサービスを受けるためには(受けた)、追加で何かしらのリターンをするべき」という考えには強く同意する。

チップは主に金銭的報酬の形を取るだろう。

ここで少し視点を変えてみて、例えば、あなたは態度の悪い客に対していい接客をしようと思うだろうか。

気分が悪くなり、心地よい接客をするにはストレスが溜まるはずだ。

「お客様は神様だ」理論は結果として自分の首を絞めることにつながる。

序盤で説明したように、店側には多種多様な「神様」に対して様々な方法で貢ぐだけの無限の時間と資源は持っていないからだ。

店員への態度や口調が悪い、うるさい、食べ方や飲み方が汚いなどの行動や言動は店員からの良いサービスを受けるのにマイナス要素でしかない。

しかしながら店員に対してリスペクトを持ち、客側からもそこでの体験をより良いものにしようという姿勢、「心理的報酬」を与えるようにすれば自ずと満足感を高められると思う。

特にチップ文化のない国ではそのようにして良いサービスを受けるのが1番良いのではないか。

その上で自分が最大限に幸せを感じたのなら、チップをさらに払うのは素敵なことではないか。

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