”絨毯の下に” 絵本『ハリス・バーディックの謎』から
ロッソ氏は今年40歳になる、独身の男性だった。職場である市役所から歩いて10分のところにアパートを借りて一人で住んでいる。ローマの住宅事情を考えれば、それはなかなか豪勢な住まいと言ってもよい。2LDKで広めのリビングには、最新のオーディオ機器と大きめの本棚があり、休日に、彼はそこでクラシックを聴いたり、読書をしたりするのが楽しみだった。
その日も彼は、お気に入りのゴルドベルク変奏曲を満ち足りた気持ちで聴いていた。カフェオレを飲みながら、膝に猫をのせ、音楽を聴く。彼にとってこれ以上の生きがいはなかった。
ふと部屋の隅で、何かが動いたような気がした。一瞬、彼はネズミが出たのだとぎくりとした。床を端から端まで眺めた。オーディオの裏のスペースも見てみたが、何もいない。飼い猫のタニスを床に置いてみたが、うんともすんとも言わず、肉球をなめるだけだ。彼は再びソファーに座り、バッハの音楽に身を委ねた。
時計を見ると、すでに23時になっていたため、彼は就寝するために席を立った。そのときだ。彼の足下で何かが動いた。いや、正確には床が盛り上がった。カーペット敷きの床には何か動物がはいるすき間はない。しかし、彼の足下の床はちょうど巨大なネズミが入っているように盛り上がり、今にもカーペットを突き破りそうに、動く。
彼はネズミだと確信したが、不思議なことに次の瞬間にはカーペットがもとの正常な状態に戻っていた。
床に穴が空いているのか、それとも幻覚でも見たのか、彼はそんなことを考えながら、その日は眠りについた。
次の日、市役所で働きながら、昨日の夜の出来事が気になり、仕事中何度か心あらずの状態になってしまった。
と言っても仕事に大きな影響は出ない。
ロッソ氏は高齢者福祉課の課長補佐として勤めている。保険や健康相談などが主な仕事であるが、決済などは課長が、相談者対応などは若手がするので、閑職である。時々、来た文書を受け付けたり、電話に出たり、若手がお昼で出払っているときに、窓口に立ったりするだけである。ロッソ氏は仕事にやりがいを求めていなかった。学生時代は本と音楽に熱中し、好きなことを仕事に、とも考えたが、彼が就職活動をしていたときは不況の嵐が吹き荒れていたため、安定とされる公務員を選んだ。
夜、19時頃、ロッソ氏は、家から少し離れたパブで酒を飲んでいた。生ライブをする趣味のいいパブだった。
カウンターに若者が数名と、奥の席に酔っ払った中年数名がいるだけだ。
ロッソ氏はマルゲリータピザを食べながら、周りの風景を見ていた。
店の奥から中年の3人組の話声が聞こえる。
「そりゃ、生きてれば人生いろいろあるよね。」
ロッソ氏は、自分の人生を振り返った。色々あるというが、ロッソ氏には仕事と本と音楽しかなかったような気がした。それも色々と言えるのだろうか。今となっては、無味乾燥な仕事と、その疲れを癒やすためだけの本と音楽。
幸福だとか、心が動くとか、驚くとかのない人生。
そういえば昨日の夜に、部屋のカーペットが盛り上がったのは、ここ数年の彼の人生のなかでも、最も驚いた出来事だった。ロッソ氏は神妙な気持ちのまま家路についた。
2週間後、またそれが起こった。
リビングでグラズノフの『夢』を聴いていたら、急に床が盛り上がり始めたのだ。今にもカーペットを突き破りそうに、モゴモゴと動いていた。それは、何かを主張したいけど、周りから押さえつけられている人を思わせた。
ロッソ氏は静かに見守った。それは今にも30センチの大きさになり、カーペットを突き破りそうだ。5分後、その何かは徐々に動きが弱まり、小さくなっていった。
ロッソ氏は、これは自分のなかにある情熱のようなものではないか、と思った。学生時代、彼は友達や恋人がいた。将来は、編集者か記者になって本や音楽の魅力を伝えたいと思っていた。でも、時間が経つにつれてそれらはロッソ氏からなくなっていった。
今からでも間に合うのだろうか。
ロッソ氏はそれから音楽を聴くことを止め、またあの何かが現れるのを待ち続けた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?