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そしてワタシは白湯をのむ

珈琲も飲むけどね。

いわゆる養生とか健康法と云われるものを沢山実践してきた。様々な呼吸法、冷えとり、アーユルヴェーダ、菜食、断食、プロテイン、etc… 

 常に懐具合に余裕がないので、できる範囲で、しかし一定の期間は決して緩くないレベルでやってみる。自分の身体で試さないことには気が済まない性分。ついでに懐具合に余裕がないのは、「あるとアナタ余計なことをやるから必要な分だけね」という自然の計らいだと思っている。

で、今は心地よくできることしかしていない。その時々によって思い出したようにやることもある。それがワタシの「いい塩梅」なのだ。

自分の身体は自分で責任を持つ。誰かに任せるのなら、それを選んだのもまた自分ということ。

 人間の体は絶えずどこかが毀れている。そしてそれを、絶えずどこかで治している。毀したり治したりしながら生きているのである。だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区別はつけられない。                                                              整体の人は体のあることを意識しない。胃袋があったり、心臓があったり、自分の脚が重かったり、頭が重かったりするのは、そこが停滞しているからである。           心もそうである。イライラしたり、ムカムカしたりして心を意識することは、整体ではない。体もない、心もない、裡に要求があれば無心にうごき、動いて体を意識しないのが整体なのである。                  -野口晴哉 風声明語より抜粋-

無頓着で意識を向けていないのともまた違う、受け皿としてそのままを表現できる身体。

人間の姿。


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