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「利他」とは何か

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「中動態」(國分功一郎氏)の概念を、この本から知った。

能動態でも受動態でもない「中動態」。私の行動は、引き起こされている。アフォーダンス。
中動態は古代に存在していた文法概念であり、逆に人間が完全に意志的に動くことを仮定した「能動態」は存在しなかったそうだ。

人は、ある行為をするとき、完全に能動的なのか?
たとえば、聖書の中の良きサマリア人の話。
目の前に、死にそうな人が倒れている。自分が手を差し伸べれば、その人は助かる。
倒れている人によって引き起こされた、「助ける」という行為は能動的なのか受動的なのか?國分氏は、これを「中動態」の例としてあげ、「利他」の本質と見る。

また、何か罪を犯した人は、100パーセント能動的に罪を犯したと言えるのか。その行為に至らざるを得ない状況があったのではないか。

「中動態」という概念は、私たちが人間を理解する枠組みを一新する。ものすごく大雑把に言えば、「中動態」を仮定することで、「自己責任」という逃れようのない正論から解放され得る。また、良きサマリア人の「中動態」による解釈には、人が人に関わる本質が表れており、それは”care”とは何か、という問いへの一つの答えだ。

中動態は、しかし、動詞の活用を規定する、れっきとした文法上の規則でもある。
つまり私たちの思考は文法に支配されている。現在、「能動態」「受動態」という文法規則自体を、私たちが疑うことはなく、そのルールの中で言葉を使い、思考している。
このような、自明すぎて意識もされない枠組みの外に立ち、その枠組み自体を明解な言葉で問い直す國分氏の論考の気持ちよさ、自分の脳が整理されるような快感と、「中動態」を仮定することで可能になる考察の射程の広さに、感動した。

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順序は逆になってしまったが、これを読まなければ・・・!


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