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『ポストコロナの生命哲学』

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先日、久しぶりに体調を崩した。回復してきて手に取ったのが、『ポストコロナの生命哲学』。
伊藤亜紗さん、福岡伸一さん、藤原辰史さんがピュシス(自然=身体)とロゴス(論理、科学、言語)について語る。本書は『利他とは何か』の前章でもある。

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 3人は、コロナを、ロゴスを推し進めてきた人類に対するピュシスの反乱と位置づけ、ウィルスを「敵」として制圧するのではなく、「共生」の可能性を探る。本来人間はピュシスであり、それをロゴスでコントロールして生きてきた。ところがロゴス=科学が行き過ぎたとき、生命は制御可能な精密機械とみなされるようになり、人間以外の生命は人間によるコントロール可能なものと錯覚されるようになった。

ところが、このコロナ。ウィルスというピュシスが人間の細胞に飛び込んだ。それは瞬く間に世界に広がり、どんなロゴスによっても制圧できず、逆に私たちはこの約2年、翻弄され続けている。

面白いのは、人間が動物が生息する地域を侵食したことにより、動物界にいたウィルスが人間界に入ってきたということ。また、ウィルスが細胞内に入るとき、人間の細胞は抵抗するのではなく、むしろ受け入れる体制をとる、ということ。つまり、このコロナは私たち自身が招いたものでもある、というのだ。

 3人は、このような視点から、コロナを、ロゴス化しすぎた人間への、ピュシスの反乱と見る。だが、そもそも私たちの肉体はピュシスなのだ。

随所で心惹かれたのは伊藤亜紗さんの発言。「身体」をテーマに、障碍者の身体に向き合い、考察を深めている彼女の言葉は、常に実感に根差している。彼女は、女性だからこそ可能な研究を切り開いている。

女性は、身体のままならなさとともに生きている度合いが、男性よりもはるかに高い。
毎月の生理や妊娠出産の過程で、私たちは自分の身体が思い通りにならないことを思い知らされる。
妊娠とは、身体の中に完全なるピュシスを抱え込むこと。つわりも、大きくなるお腹の重さも、そのまま受け止めるしかない。出てくるまで耐えよう、と。

でも、出てきた後も(生んだ後も)、ちっとも楽にならない。赤ちゃんという名のエイリアンに、自分の日常をすべて奪われ、翻弄され、身も心もボロボロヘトヘトになる。それでも、自分から出てきたピュシスな物体を死なせないために、24時間体制で世話をする。あの時間の中で、母たちは、それまでの自分では生きられないことを悟るのだ。
赤ちゃん、まさにピュシスの塊。それは私にとって、本当に衝撃的な脅威だった。暴力ですらあった。

それを知っている伊藤さんの言葉は「学者の言葉」ではない。主観的かもしれないが、福岡さんとも、藤原さんとも一線を画す。そして、その伊藤さんの言葉に共感し、触発される男性陣を頼もしく思う。

女性は、ロゴスなんて吹き飛ばすピュシスの暴力的なまでの力を本能的に知っている。それに翻弄され、なんとか共生してきた女性の言葉は―言葉はロゴスであっても―、ピュシス的な力を持つのだろう。
そう、だから、本書で非常に重要な位置を占めるナウシカは、女性でなければならなかったのだ。世界を救うヒーローではなく(世界を救う、という発想自体が非常にロゴス的である)、利他に生きる道を探る先導者として。

さあ、ロゴス的な楽しみはここまでにして、ロゴス的でなければ立ち行かない、仕事と子育ての日々を乗り切るためにも、ピュシスに耳を傾け身体を整えていこう。

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