見出し画像

春を待つ陽射しのなかで仄暗さを感ずる。

春を待つ陽射しのなかで仄暗さを感ずる。

ボクは青木真也の表現が好きだ。
闘うこと、書くこと、語ること。

彼の表現を全て理解しているとは思わない。
きっと、出来てはいない。

でも、
それで良いと思う。

ボクは青木真也の人生を生きているわけではなく、
青木真也になりたいわけでもない。

彼の表現を
好きで、ただ追ってしまっているだけである。

彼がただ相手選手の骨を折ってしまっているように
ボクには必然なのだ。

彼の戦いの表現は
「総合格闘技」や「MMA(Mixed Martial Arts)」を
ちょっと前まで追い求めてきた。

そう、ちょっと前までは。

青木真也の表現に魅了されているカレは一歩も二歩も三歩も前を行っていた。
カレに青木真也の闘いの表現のNext Stageを教わった。

ボクはそれにハマったし、
より青木真也にのめり込むようになった。

所謂、MMAが自由であったり、強さの象徴であるというのは、
ボク自身においては勘違いであったのだ。

プロレスと格闘技をそれまで上下つけて視てしまっていた自分は
素直にそこにいた。

知らなかった。本当に無知であったのである。

ファイトスポーツ、ファイトエンターテイメントで
どちらが上でどちらが下って話ではなく、
そんな考えが恥じるべきことだったのかもしれない。

もし、青木真也の「MMA」と「プロレス」を分けて視てしまうと
最近は「プロレス」の方が率直に好きである。
楽しそうに闘っているし、本当に楽しそうだ。

「格闘技」を好きでやっていて、
隔たりや壁は本人にとってないのかもしれない。
区別はもしかしたらあるのかもしれないけれど。

”ヒリヒリとした”存在をかけた闘いを観たい。
ただそれだけである。

「秋山成勲」と闘うと聞いて正直乗れなかった自分が居たことは否定しない。
でも、今年に入ってから違うのである。

昨年末にやりそうだった時は、乗れない自分がいた。
でも、変わった。

「エドゥアルド・フォラヤン」とと再々戦したときも
正直乗れていない自分がいた。
でも、「青木真也」は違った。

ちゃんと、表現をし、表現を創りあげ、
想像を超えたものを創造して魅せてくれた。

「エドゥアルド・フォラヤン」と再度闘った時に
乗れなかったボクを後悔させてくれたのに。

彼が後ろを見据えて、闘う中で闘っていくことの意味や価値を勝手に履き違えてしまっていた。
”ヒリヒリ”するもの、可能性を使い切る闘いを観たいと勝手に、
本当に自分勝手に思ってしまった。

「秋山成勲」と闘うということは、
ボクにとって”ヒリヒリ”するものではないと決めつけてしまっていた。
浅はかだった。

なかなか、国内で「MMA」戦を観ることが出来ておらず、
「プロレス」の闘いをここ1、2年は観ている。

とてもいい顔をしている。
とても楽しそうなんだ。

「秋山成勲」との闘いは違うものが観れると思う。

彼の好きが、表現される。
好きだから闘い、好きなことだから辞めない。
好きなことだからいつでも辞めることができるのだと思う。
好きなことだから辞めることが出来ないのかもしれないのだけれど。

どっちが上とか無いのだけれども、
プロレスはお互いのプライドがルールで
お互いの存在を賭して闘っている。

存在を賭けた闘いが観れるからではなく。

彼の表現であるから楽しみなのである。

この話はこんなところで

ここから先は

234字

¥ 200

この記事が参加している募集

#私のイチオシ

50,704件

気にいていただいたり、興味を持っていただいたり、いいなと思っていただけたらサポートいただけると大変嬉しいです。 サスティナブルなコーヒーワークの実現に役立てます!