フィクションとノンフィクション 自然と不自然の狭間に脚色と演出と
フィクションとノンフィクション
ドキュメンタリーノンフィクションなのか、
ドキュメンタリーの脚色と演出と
は改めて
今回はフィクションのお話。
事実や史実、自叙伝、自伝に基づく作品も含む
むしろ今回はその枠での話
これの続き的なお話。
足利スクランブルシティスタジオ
を知っているでしょうか、
渋谷のスクランブル交差点をコピーした
栃木県足利市内に6,585㎡の敷地にリアルサイズで再現されたスクランブル交差点のオープンセット。
ボクは渋谷のスクランブル交差点は馴染みがあるとは言わないが、
東京生まれ、東京育ちはなのでよく知っている。
リアルサイズに再現されたオープンセットは壮観である。
リアリティがあるが本物ではない模倣品(コピー)である。
再現性の高い模倣品の話は改めてしていく。
内容や詳細は現時点ではお話しできないのでは、
とあることに参加、体験、体感したことの
一部を書いていきたいと思っている。
大まかにぼやかしていうと
事実や史実、自叙伝、自伝に基づくフィクション、創作物、表現に参加してきた。
「人生、死んでしまいたい時には下を見ろ! 俺がいる!」
的なお話
時代背景、時代考察は出来るだけ反映させるカタチで創られ、
今では当たり前になったモノが当たり前でなかったり、
その当時当たり前のモノは今当たり前でないことも多い。
そんなことに気付かされたこともある。
忘れてしまったこと、知らないことも多い。
そこのディテールへのこだわりと
表現物、表現とのこだわりが歪な繋がりを持ち共存をする。
監督等々のつくりかた、表現方法によって異なるが、
とても面白く、興味深いものであった。
ひとつのシーンも大量に多アングルにてカメラを配せれば、
ワンシーンで他(アングル)カットが撮ることが出来る。
ひとつのシーンも他アングルから何度も撮るパターン
さらにそのシーンを細かく切り取りアングルも複数撮るパターンも
アングルを複数儲ける場合はメインの演技位置が同じでも
アングルを撮るためにクルーの場所が異なる。
大人数、大きなセット内での組み上げは多くの人々の尽力(人力)で成り立ち、その際に厳密に同じ様に撮る手法と、
アングル及びカットごとに映えや監督の望む表現、映り方、画郭の調整、
脚色と演出と行われる。
その際に現場にいる人からすると
自然と不自然の狭間が産まれ、整合性の歪み、繋がりの歪みが生まれる。
しかし、きっとカットの組み合わせ(編集)で修正と言うより、
さらに脚色と演出で表現、作品として完成され、
自然と不自然の狭間は消えるのではなく、
気にならなくなる、気にしなくなるのである。
そもそも、フィクションであるし。
ここから先は
¥ 100
気にいていただいたり、興味を持っていただいたり、いいなと思っていただけたらサポートいただけると大変嬉しいです。 サスティナブルなコーヒーワークの実現に役立てます!