レイシズムとは何か

新型コロナウイルスの流行を口実にして、世界でも日本でも深刻な差別が頻発しており、非常に危険です。なぜならレイシズムという、人間の生死を分ける差別が暴力に結びつく条件が整いつつあるからです。危険性がどんどん高まっているヘイトクライムを未然に防ぐためにも、「レイシズムとは何か」を考えてみることが求められているでしょう。以下、不定期ながら連載で「レイシズムとは何か」というテーマで試論を書いていきます。よろしければお読みください(自分の考えをまとめるために書いたので、少々難しい個所があると思いますが、そういうところは読み飛ばしてもらって結構です。あとで具体例をたくさん出して解説し直していきます)。

***

1.レイシズムとは何か──人種差別としてのレイシズム

 レイシズムとは何か。

 一番簡単に答えるとすれば、レイシズムとは人種差別や民族差別のことだ、といえる。人種や民族などのルーツにまつわるグループを不平等に扱う差別。これがレイシズムの基本的な意味だ。

 この意味でのレイシズムは戦後国連で、ファシズムや戦争による社会破壊の再来を防止するための「反レイシズム」という大原則によって禁止されてきた。ナチドイツやイタリアと同じ旧枢軸国ながら戦後国連加盟が許された日本も、世界平和維持のための反レイシズムに取り組むという国際社会の一員としての責務を負ってきた。特に人種差別撤廃条約を1995年に批准してからは(146番目で先進国では最も遅い部類)反レイシズム法をつくりレイシズムを撲滅する条約上の義務も負った。ところが日本政府は、他の欧米先進国が1960~70年代には整備した基本的なレイシズム禁止法さえ、戦後70年以上経過した現在までつくることなく、20年以上も国際条約違反を続けている(以下「人種差別」は人種差別も民族差別も含む同条約第1条のracial discriminationという意味で用いる)。

 「レイシズム」という言葉が近年日本で普及しはじめた理由はここにある。「朝鮮人を殺せ」などといった日本各地の街頭から書籍やインターネットで頻発しているヘイトスピーチ(差別煽動)や極右活動の蔓延は、日本のレイシズムが既に社会を破壊する非常に危険な水準に達した。このような日本の差別状況と政府による放置状況の深刻さを、人種差別に明確なNOを突き付けるグローバルスタンダードなモノサシを当てることで可視化する取り組みの中で、「レイシズム」という言葉はNGOやジャーナリズムやアカデミズムによって普及されてきたのである。

 この国際社会で違法化された人種差別という意味でのレイシズムは、日本では日常茶飯事のように頻発している。近年最も露骨なのは政治家やメディアのヘイトスピーチであろう。たとえばつい先日も麻生太郎副首相が、日本がまるで単一民族社会であるかのような事実に反する発言を行った。

これは後述する通りアイヌなどの先住民の存在を否定し、日本人を人種化してその人種的優越性を煽動する効果を持つヘイトスピーチだといえる。本来このような人種差別に対しては、人種差別撤廃条約に義務付けられている通り国が(政府や首相や法相や国会議員なども)反対声明を出すなど撲滅のために尽力すべきだ。だが国は全く差別を批判せず、国会議員もほぼ誰も批判コメントをださない。さらに新聞報道もこの麻生太郎氏のヘイトスピーチについては「批判を呼ぶ可能性」などとしか書くだけで、「差別だ」とハッキリ書いた記事は管見の限りみあたらなかった。このように議員やマスコミの批判の極端な弱さを背景に、日本政府はあろうことか麻生太郎氏の差別発言を閣議決定で公認したのである

 副首相による人種差別が起きても、クビにならない。それどころか政府も議員もマスコミも含め、誰も面と向かって「差別はいけない」と言わない。

 事態の異常性に気づいてもらうのには、レイシズムが社会悪として違法化されている他国で同様のことが起きたらどうなるかを、考えてみるだけでよい。たとえば米国で副大統領が「アメリカは単一民族の国だ」とか「白人の国だ」と言ったらどうなるか。そして上下院議員が誰も批判しなければどうなるか。さらにワシントンポストなど新聞が「批判を呼ぶ可能性がある」と書くだけで差別だと書かなければどうなるか。さらにホワイトハウスがコメントを出して副大統領を擁護したらどうなるか。

 この一件だけでも、社会を破壊する違法な人種差別としてのレイシズム概念が日本でいかに必要なのかがわかる。人種差別撤廃条約ほかグローバルスタンダードな反レイシズムが禁止する「レイシズム」という概念を、日本で急速に普及して差別を「見える化」し、差別撲滅に努めなければならない。さもなければ日本の社会や民主主義そのものが、レイシズムによって破壊されてしまうことを防ぐことはできないだろう。特にマスコミや政府・自治体や国会・地方議員や政党が、レイシズムが何であるかを正確に理解して、意識的に使うようにしなければならない。

 

2.レイシズムとは何か──人種差別を生み出すチカラとしてのレイシズム

 しかし本当は、レイシズムが人種差別であるという定義は、あまりにも狭く、不十分である。人種差別とは、いわば狭義のレイシズムにすぎない。

 レイシズムの本当の恐ろしさは、それが単なる差別ではない、というところにある。

 例えばレイシズムは実際に人を殺す。近年欧米ではブレグジッド(英国のEU離脱)や移民排斥を訴えるトランプ大統領当選を機にレイシズムが煽動され、暴行や放火から爆破や銃乱射事件まで、実際に人を死に至らしめるヘイトクライム(差別に基づく犯罪)が頻発している。差別は差別でも、レイシズムは人間集団を人種化して殺す差別なのである。

 しかも単に殺すだけでもない。レイシズムは人種化した人間集団を皆殺しにしようとする傾向がある。

 「できるだけたくさんのメキシコ人を撃ちたかった」。2019年8月に米南部国境に近いテキサス州エルパソのウォルマートで、メキシコ系移民を狙って銃乱射事件を引き起こした犯人は警察にそう語ったという。20名を殺した犯人は21歳の白人男性だった。彼は白人至上主義者が頻繁にヘイトスピーチ(差別煽動)を書き込むインターネット掲示板「8ch」(元々日本の「2ちゃんねる」を真似たもの)に犯行声明を投稿している。曰く、ヒスパニック系の移民のほうが「テキサス州を侵略」してきた側であり、そして自分の銃撃は侵略への対応策であると堂々と主張していた。

 いったい若き白人男性に、メキシコ系移民を侵略者だと思わせ、移民をできるだけ多くを撃ち殺すことを義挙であるかのように確信させ、銃乱射事件を夢見るだけでなく実際に自宅から1000キロの道のりを10時間以上かけて車でドライブして実行させたものとは何だったのか。

 このように人種差別を生み出すチカラがレイシズムである。人種差別を生み出し、暴力に結びつけ、社会の危険となる「人種」をできるだけ殺そうとする途方もないチカラが、私がこれからその危険性を訴えたい、レイシズムの正体である。

3.暫定的な定義──レイシズムとは、①人間を人種化して、②殺す(死なせる)、③近代の権力である

 では、レイシズムとは、いったい何か。この問いには連載を通して答えていきたい。しかし最初に、あらかじめ手がかりとなるようなポイントをまとめた「定義」がないと、議論するのも困難になってしまう。

 そのため暫定的にレイシズムを次のように定義することにする。

 レイシズムとは、①人間を人種化して、②殺す(死なせる)、③近代の権力である

 解説は次回以降に行うが、この3点についてごく簡単にどういう意味なのかを書いておく。

 ①レイシズムは人種化する。

 レイシズムは第一に、人種をつくり、人種によって人間を分断する。

 つまり(ありもしない)人種をつくりだして、人種によって人間を分断する。これがレイシズムの第一の機能だ。

 周知の通り、今日の生物学的な意味での人種は存在しない。レイシズムはしかし生物学から文化まであらゆる口実を用いて「人種」をつくり、つくりあげた「人種」によって人間を分ける。

 たとえば新型コロナウイルスを口実にして、飲食店が中国人の入店を拒否する張り紙をだした事件が発生している。そこで「中国人」と「日本人」を分ける作用がレイシズムの「人種化」である。

 ②レイシズムは殺す(死なせる)。

 レイシズムは第二に、人種の分断線に沿って、生死を分断する。

 レイシズムは人間を生かすべき者と死なすべき者とを分ける機能を果たす。そうすることでレイシズムは実際に人を死なせる。

 先の飲食店での中国人差別の事例では、まだ入店拒否に留まっていた。だがその差別が、たとえば病院とか救急医療だとか、あるいは生活保護行政だったらどうなっていただろうか? 人種による差別は、いざというときは生死の選別に容易に結びつく。レイシズムの人種化による分断線は、生死選別の規準として機能する。

 実際にエルパソでのヘイトクライムが示す通りレイシズムは人の命を奪う(ここでいう「殺す」とは、物理的に刺したり撃ったりして「殺す」だけでなく、死なせる、死に追いやる、というやや広い意味も含めたかたちで用いる)。

 だがなぜレイシズムは殺す(死なせる)のか。それはレイシズムが人種化した他者の死を、人種化した自分たち社会の生とリンクさせるからだ。レイシズムは社会の危険としての「人種」をつくりだす(言ってしまえばレイシズムは、社会の危険を「人種」としてつくりあげる)。だからこそレイシズムはその「人種」の人口を減らしたり、入国を拒否したり、死なせ、殺す。

 欧州でもコロナウイルス流行を受けて中国人やアジア系に対するヘイトクライムが頻発しニュースになっている。なぜこのような攻撃的な差別が頻発するのか。これもレイシズムが社会の危険(感染症)を人種化された「中国人」「アジア系」としてつくりだしていることと無関係ではない。危険な人種を駆除(死なせる)ことが社会防衛にとってむしろ「必要」だとするようなメカニズムをレイシズムはもっているからなのだ。

 ③レイシズムは権力である。

 第三に、レイシズムは権力である。

 既に書いた通り、レイシズムは第一に、人種化し、人種による分断線を引く。第二にレイシズムは社会の危険としての人種をつくりあげ、その人種の死を社会の生とリンクさせることで、人種化された他者を殺す(死なせる)。そしてそれらの作用は権力だ、というのが第三のポイントだ。

 ここでいう権力とは、一般に思われている「国家権力」ではない。つまり社会の上からやってきて、私たちの「自由」を奪い、人間の「主体」を縛り付ける強制力、などと一般的にイメージされるようなものではない。

 つまり権力とは、このような一般的イメージに合致する、本質的にネガティブな性格をもつチカラではない。

 その逆だ。権力とは人々の行為をむしろ作り上げる、生み出すことができるポジティブなチカラだ。ここでいう権力とは、「自由」がある状況下で、人びとが特定の行為をおこなえるようにするチカラのことだ。

 さて、レイシズムが権力である、ということはどういう意味か。

 それは人種化して殺す(死なせる)というレイシズムの機能は、イデオロギーでも制度でもなく、私たち一人一人の行為が、日々生み出している社会関係によってつくられている、という意味である。つまりレイシズムは私たちの行為によって生み出されているのだ。

 レイシズムとは、人種化して命を奪うことを可能にする、一人一人の振る舞い方が生み出す効果のことだ。人種差別を可能にするチカラ、つまり人種差別を発展させ、暴力として現象させ、生死選別時に人種を持ち込むことで人の命を奪う、独特のチカラを意味する言葉として、ここではレイシズムを権力として位置づけることにする。

(続く)

(※以下は少々難しいので読み飛ばしても結構です)

補論──レイシズムを権力として位置づけることの意義

 レイシズムが権力であることを理解すると、次のことがわかる。

 第一に、人種化し殺すことが、どのような人々の行為によって支えられているかを、明らかにすることができる。この連載はここに焦点を当てたい。エルパソでのヘイトクライムはなぜ・どのようにして起きることができたのか。犯人に「メキシコ人」が社会の危険だと思わせた効果、実際に銃乱射を引き起させた効果をもつ行為を、具体的に探ること。私がレイシズムを権力として考えてみたい第一の理由はここにある。

 第二に、反レイシズムによる抵抗の意義である。反レイシズムしだいでは、レイシズムは抑制することができることがわかる。フーコーは権力があるところには抵抗があると言ったことがある。権力とは行為と行為の関わり合いである以上、どんな抵抗もじつは権力の内部にある。権力に抵抗する、という言い方はじつは正確ではない(権力の外には誰もでられないのだから)。権力に抵抗するということができるのは、せいぜい権力のある特殊な行使の仕方に対して、それを不可能にするような仕方の行為の効果によって介入することである。

 じつは権力は抵抗を前提にしている。人間を従わせようとする権力に対し、従うまいとする権力が対抗し合い、相互に干渉・介入し合うことを通じて、権力は作動する。

 権力としてのレイシズムも同じだ。レイシズムはつまり人種化して殺そうとする権力と、それに抗して差別と暴力に反対し殺人を止めようとする反レイシズムとの対抗関係のなかで機能している。社会防衛を掲げて社会にとって危険な人種を排除するために、生死の選別基準として人種の分断線を使わせようとするレイシズムに対して、「危険な人種」など存在しないこと、人間を生きるべき者/死ぬべき者に分断することに抗すること、人種の分断線じたいが差別であると反対すること、そして人種の分断線と生死の選別を結びつけるレイシズムの連結環を断ち切ること。このような具体的なレイシズムの効果に、具体的に対抗的な効果をぶつける反レイシズム闘争は有効であり、このことは日本と欧米を比較すると明確にわかる。

 これから書いていく通り、欧米始め諸外国で一定の成果を挙げ、差別禁止法や極右規制などの政策として制度化されるに至った(拙著『日本型ヘイトスピーチとは何か』(影書房)第四章参照)。だが日本の場合、欧米のような、たとえば平等なシティズンシップを闘い取り対抗的な反レイシズム規範を形成しうるタイプの反レイシズム闘争は残念ながらつくれなかった。そのためレイシズムの人種化して殺す権力は、日本ではほとんど抵抗にであわないまま、欧米に比べればかなり自由に機能することができる(のちに述べる通り、これは欧米の反レイシズムとの対抗関係によってレイシズムの逃げ場となっている社会の外的境界ではなく、反レイシズムによって十分抑制しうるレベルの社会の内的境界での差別・排除・隔離において、日本では自由に機能できるのだ)。そして拙著『日本型ヘイトスピーチとは何か──社会を破壊するレイシズムの登場』(影書房)で論じた1952年体制のように、レイシズムと国境の壁を癒着させることで、レイシズム政策なしにレイシズム政策を貫徹することさえできるのである(これはレイシズムがつくりだす社会の外的境界を、社会の内的境界に一致させることを法的制度によって固定し、そうすることによって民族差別を国籍区別に偽装することを可能にしたといってもよいだろう)。

 まとめると、レイシズムは権力だ。つまり人種差別を可能にする人々の振る舞いが、人種化し殺すことを可能にする人々の行為の積み重ねが、レイシズムである。しかしレイシズムは制度やモノではなく権力である以上、つねに反レイシズムやその他の対抗関係のなかで作動するし、したがって反レイシズム闘争次第ではかなりの程度抑制することも可能なのである。

 おそらくこのレイシズムを反レイシズムとの対抗関係から読み解くという視点こそ、日本のレイシズムの特殊性を解き明かすカギとなるだろう。欧米では反ファシズム闘争と戦後の反ネオナチ闘争などによって反レイシズム規範が成立し、その結果、レイシズムがつくりだす社会の内的境界(ユダヤ人差別や黒人差別)は少なくとも建前としては禁止(タブー)になったため、レイシズムは社会の外的境界(外国人か国民か)という国境や国籍を通じた「区別」に逃げ込むことになった。つまり反レイシズムによって、ネイションの外的境界にレイシズムが逃げ込み、ナショナリズムに隠れてレイシズムが機能するというタイプの高等戦術の採用を強いる権力関係がつくられたのだ(そのなかでこそ英国の反レイシズムのなかのナショナリズム=レイシズムを批判するギルロイの議論をはじめて理解することができる)。

 それに対して日本は欧米のような反ファシズム運動も公民権運動もなかったため、レイシズムはほぼ有効は反レイシズムとの対抗に直面せず、差別禁止法さえつくられなかった。日本の場合、そもそも社会の内的境界は戸籍によって制度化されてきた(日本型イエ制度の法制化と、それによってレイシズム法がないままレイシズムを制度化することに成功した)。それとともに戦後は、在日朝鮮人から国籍を剥奪し入管法によって外国人政策を代用する1952年体制によって、レイシズムがつくりだす社会の外的境界と、社会の内的境界とを、限りなく一致させることに法制度上は成功したのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?