レイシズムとは何か(2)──偏見からジェノサイドへ

前回記事はこちらです。

 レイシズムとは何か。
 狭義では、レイシズムは人種差別=人種・民族などのルーツに結びついたグループへの不平等、といえる。
 そしてより広い意味ではレイシズムは、むしろ人種差別を生み出すチカラのことといえた。つまりレイシズムとは、人種化して、殺す(死なせる)、権力だ。
 このようにレイシズムを定義することで考えたいのは、レイシズムが暴力やヘイトクライム(差別に基づいた犯罪)やジェノサイドといった、最悪の事態に至るメカニズムである。レイシズムはなぜ、どのようにして、実際に暴力やジェノサイドに結びつくのか。この問いを正面から考えたい。
 前回とは変わって、今回は具体的な例をあげながら、実際にレイシズムがどのように暴力に結びつくのかを考えてみよう。

レイシズムのピラミッド

 レイシズムは「朝鮮人は反日だ」と思いこむような偏見から、ヘイトクライムやジェノサイドといった最悪の事態まで、さまざまな形をとりうる。
多様な形として現われるレイシズムを、軽微なものから深刻なものへと5つのレベルに分けて、下から上に並べた「レイシズムのピラミッド」をみてほしい(拙著『日本型ヘイトスピーチとは何か──社会を破壊するレイシズムの登場』(影書房)で作成、引用はARICの「キャンパスヘイトウォッチガイドブック」から)。

ピラミッド

 ピラミッドの一番下にはレベル1の偏見がある。ここでいう偏見とは「朝鮮人は反日だ」とか、「女性は理系に向かない」などといった、グループへの不平等を正当化するステレオタイプである。
 「朝鮮人は反日だ」という偏見を例にとれば、レイシズムは人間を人種化することで、社会の危険として「反日な朝鮮人」をつくりあげる。そうすることで朝鮮人/日本人の分断をつくりだす。
 レベル2になると、偏見は基づいた行為として現われる。たとえば「朝鮮人は反日だ」と思い込んでいる人が、じっさいに「韓国人」(と思われる人)との接触を避けるとか、冷淡に接するなどの行為のことだ。あるいは一定程度「仲良い」在日コリアンに、冗談めかしたり酒の勢いを借りたりして「じつは反日なんじゃないの?」と発言してみる、などである。レイシズムはその人がどの「人種」なのかによって行為を変えさせる。
 レベル3になると、実際に差別として現われる。たとえば飲食店やホテルで「中国人お断り」と張り紙を出したり、企業が朝鮮人の就職を断ったり、不動産仲介業者やオーナーが外国人の入居を拒否するなどである。前回書いた狭義のレイシズム(人種差別)はこのレベル3以上を指す。差別行為は人種差別撤廃条約などの国際人権規範によって違法化される。だが日本の場合、国内法で差別を禁止していない。
レイシズムは同じ人間を人種によって分け、不平等に扱う差別行為を生み出す。
 レベル4は暴力だ。殴る蹴る斬りつけるなどの暴行だとか、住居や学校や持ち物を破壊するとか、墓地や宗教・文化施設などマイノリティにとって歴史的・文化的に重要なものを落書きしたり放火するとか、虐待や監禁そして集団リンチや殺人などである。
 レベル4の暴力にはヘイトクライムや極右などの差別煽動活動が含まれる。日本の例で言えば1990年代に頻発した朝鮮学校に通う女子学生を狙った「チマチョゴリ切り裂き事件」や、2000年代後半から頻発しているヘイトスピーチ街宣などが含まれる。
 レイシズムが暴力を生み出すのは、社会にとって危険な「人種」(「反日」とか「朝鮮人」とか「ユダヤ人」)をつくりだすからだ。そしてレイシズムは危険な人種から社会を防衛するというロジックで、その人種を殺そうと(死なせようと)する。
 そしてレベル5はジェノサイドだ。
 日本語で「大量虐殺」と訳される場合があるがこれはポイントを外している。殺人の量ではなく、質が問題だからだ。
 ジェノサイドの定義は「国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部をそれ自体として破壊する意図をもって行われる殺害などの行為」(ジェノサイド禁止条約)だ。そもそもジェノサイドという用語は「古代ギリシャ語で種を表すgenosと、ラテン語に由来し殺害を意味するcideを組み合わせた造語」だ。
 つまり単にグループのメンバーを殺すのではない。ジェノサイドは殺害の目的が人種化したグループそのものの抹殺のために行われるものだ。ナチドイツのホロコーストや関東大震災時の朝鮮人虐殺などがその例である。
 ジェノサイドの場合、レイシズムは社会にとって危険な人種の脅威を煽り立て、社会防衛の為の人種の浄化・抹殺を正当化する。レイシズムによってつくられた人種による分断線が、実際に危険な人種か否かを摘発するモノサシとして用いられ、生死選別の判定基準となる。実際に関東大震災時の朝鮮人虐殺では、生かすべきものと殺すべきものを分ける基準として、日本の官憲がレイシズムのモノサシとして実際に開発した「朝鮮人識別法」が役立った。自警団が朝鮮人を見分ける時に、「ガギグゲゴ」や「十五円五十銭」などの発音テストが生死選別基準として用いられた。
 先にレイシズムを人種化し、殺す(死なせる)、権力だ、と定義した。要するにレイシズムとは社会の危険として人種をつくりだして人々の生死を分断し、社会防衛論によって人種化した他者を殺させる(死なせる)行為を生み出す力関係のことである。レイシズムの権力が作動して止められなくなると、人種の分断線は容易に生死選別の基準となり、偏見から差別へと、差別から暴力へと、そしてジェノサイドへと激化してしまうのである。

レイシズムは常に差別行為として現われるわけではない

 しかしたとえレイシズムが人種化して殺す(死なせる)権力であったとしても、それは常に暴力やジェノサイドを引き起すわけではない。レイシズムが暴力や差別行為(Lv.3以上)として現象するか、あるいは偏見(Lv.1)のままに留まったりするかは、条件次第なのである。
 フランスの社会学者ミシェル・ヴィヴィオルカは『レイシズムの変貌』(明石書店)で「偏見は必然的に行動に移るわけではない」という重要な指摘をしている。少々長くなるが次の引用を読んでほしい。

「偏見は必然的に行動に移るわけではない。それを裏付ける例に、リチャード・T・ラピエールの古典的研究がある。ラピエールは中国人カップルとともにアメリカ各地の州を横断しながら一八四のレストランと六六のホテルが立ち寄ったが、一度の例外(それもはっきりしない理由で)を除いて、入店を断られることはなかった。その後ラピエールが立ち寄ったレストランとホテルの経営者にアンケート用紙を郵送し、アジア人が来店したらどう対応するつもりかと尋ねると、回答者の九〇パーセントがアジア人客を断るかもしれないと答えた。
 他の研究でも同様の結果が確認されているが、この事例が示すのは、アジア人に対する偏見と行為が必然的につながるわけではまったくないことだ。中国人客は実際にちゃんと受け入れられたのである。だからといって、こうした状況で偏見が差別として表れないわけでもない。むしろ偏見から行動への移行には、特に政治とモラルの面で条件が揃うことが必要だ。条件がそろわなければ、行動は起こされないか、オルポートがラピエールの著作の注釈で書いたように、「気まずさを生むような、面と向かった状況」を避けて間接的な形で行われる」。」(76頁)


 ヴィヴィオルカが引いているラピエールの研究は、第二次世界大戦前の堂々と人種隔離がまかり通っていた時代であった。それでもレイシズムは差別行為(Lv.3)として現われるには(ホテルの宿泊拒否やレストランの入店拒否)、それなりの社会的ハードルを越える何らかの「条件」が必要だったということだ。


 改めてまとめておこう。
 第一に、偏見(Lv.1)からの差別行為(Lv.3以上)への移行には、「特に政治とモラルの面で条件」がそろう必要がある。つまりレイシズムが実際の差別行為以上に現象するには、その差別や暴力行為の背中を押すアクセルのような効果をもつ社会的条件が必要なのである。仮にこれを「差別アクセル」としておこう。
 そして第二に、その条件が揃わない場合は「行動は起こされないか」「「気まずさを生むような、面と向かった状況」を避けて間接的な形で行われる」。つまり「差別アクセル」がないところでは、レイシズムのピラミッドで言えばLv.1の偏見やせいぜいLv.2偏見による行為(マイクロアグレッションなど)に留まるというのである。

 このような指摘は実際のレイシズム現象を読み解くのに、非常に重要な視点を与えてくれる。

 レイシズムはどのような条件がそろえば、差別(Lv.3)や暴力(Lv.4)やジェノサイド(Lv.5)といった行為として現象してしまうのだろうか?
 要するになにが「差別アクセル」となるのか?


 これこそ考えるべき実践的な問題である。レイシズムがピラミッドのLv.3以上に発展するメカニズムを解明すること。差別アクセルを突き止めること。うまくいけばレイシズムをLv.3以上の差別行為に結びつける社会的回路がどこにあるかを特定し、それを断ち切ることができる。

 ではレイシズムを暴力に結びつけてしまう社会的条件とは一体どんなものか。人種化して殺す(死なせる)という権力が実際に作動して人々を暴力やジェノサイド行為に走らせる社会的条件とは何か。

差別煽動のメカニズム


 ヴィヴィオルカは次のように指摘している。

「バラバラに起きているように見える個人の暴力も社会学・政治学的に分析すると、社会・政治・制度と関係ないところで発生するのではなく、その暴力を可能にし、時に加害者の目には暴力が正当だと映るような条件の下で起きる。」(84頁)


 レイシズムを暴力行為に結びつける差別アクセルを、ヴィヴィオルカは「その暴力を可能にし、時に加害者の目には暴力が正当だと映るような条件」と書いている。

「より広い視点から言えば、暴力が増大するかどうかは、偏見や差別といった形態とは異なり、社会全体の条件に左右される。なぜなら水面下で影響を及ぼし、労働や住宅市場において当局に許容される制度的レイシズムとは異なり、暴力は一般社会からの強い批判や、政府や国家の弾圧の対象とされるためである。よって、その暴力が増えるかどうかは、政治制度に強く規定される。したがってマックス・ウェーバーの有名な表現を借りれば、レイシズムの暴力は何よりもまず、正当な暴力行使を独占する国家に規定されるのである。それゆえ国家は暴力の発生に必然的に関与するし、また国家が暴力にどう対応するかによって、レイシズムの暴力の増大や減少が決まる以上、それに責任を負っている。」(84~85頁、強調引用者)

 ヴィヴィオルカはレイシズム暴力の現象には、国家の行動が決定的なアクターとなることを指摘している。それはどういう意味だろうか。

(つづく)

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