川崎市長は差別を非難するコメントを─在日朝鮮人抹殺を煽動する年賀状事件に対して政治家とメディアがすべきこと

新年早々恐ろしい差別事件が発生した。

朝鮮人抹殺を訴えるヘイトスピーチ

川崎市の多文化交流施設「市ふれあい館」(川崎区桜本)に在日コリアンの殺害を宣言する文面がつづられたはがきが年賀状として届いていたことが6日、分かった。同館は利用者や職員に在日コリアンが多いことで知られる。市は事実確認を急ぎ、警察に被害届を出すことを含めて対応を検討している。
(神奈川新聞下記ネット記事より)

年賀状に書かれていた文言は直接に朝鮮人虐殺を煽動する差別であった。その酷さを正確に伝えるため引用する(閲覧注意)。

謹賀新年 在日韓国朝鮮人をこの世から抹殺しよう。生き残りがいたら、残酷に殺して行こう

この年賀状が送りつけられたのは川崎市のふれあい館である。あえて民族差別に反対する社会運動の結果つくられた施設を狙い、この差別はがきは送りつけられたわけで、遊びでも何でもなく、差別と殺人の予告である。

すぐにでも警察と川崎市、そして神奈川県知事や安倍首相まで、公然と差別を非難する声明を出すべきであろう。

差別発生時に、政治家が差別に反対しないことの問題

だが、報道をみるかぎり、差別を防止する責任を負うこれら機関・人物は、誰一人として差別に反対していない。

これは大問題である。

なぜなら深刻な差別が発生した場合、差別に断固とした非難声明をださなければ、差別を煽動する個人・組織(極右)を助長させ、ますます差別煽動活動を激化させるためである。

このことは事実を見れば明らかだ。たとえば10年前の京都朝鮮学校襲撃事件でも、あるいは昨年8月のあいちトリエンナーレの展示中止事件でも、実際にそうなっている。昨年に津田大介氏や大村愛知県知事らの主催者が早々と展示中止を決めてしまったこと、またその当時から卑劣な差別に対して強く非難する姿勢を見せなかったことが、どれほど差別煽動を助長させたか。

川崎市長はなぜ「差別だ、許せない」とコメントしないのか

川崎市長はどんなコメントをしたのだろうか。神奈川新聞によると次のようだったという。

6日の定例会見で対応を問われた福田紀彦市長は「関係機関と連携して事実確認を行い、必要な措置を図っていきたい」と明言。市人権・男女共同参画室によると、横浜地方法務局と情報を共有したほか、威力業務妨害容疑などで被害届を出すことも念頭に近く県警に相談するという。

残念ながら、全く不十分な、官僚的な答弁である。

せめて一言でも、「これは差別だ、許せない」となぜ言えないのだろうか?

これは不可能なことではまったくない。言論の自由を行使して、差別に反対すればよいだけであり、前例もある(国立市長が昨年夏に一橋大学マンキューソ准教授の差別事件について、音声を聞く限りは「差別だ」と明言した事例があるが、この程度のことも川崎市長はやらなかったのだ。下記記事参照)。

問題は、「差別だ、許さない」と行政の長でさえも言わない、というところにこそある。

なぜ政治家が差別に反対しないのが問題なのか。なぜならこれは社会に向けて、どんなに深刻な差別事件が起ころうとも、それは大した差別ではない、というメッセージを送っていることになるからである。これは首長や議員が差別と闘うことを義務付けている人種差別撤廃条約に違反するといえる。

だが日本では、政治家が差別に反対しないのはむしろ慣例である。2016年7月の相模原障がい者殺傷事件に関してでさえ、安倍首相は一言もそれが差別だと判断したこともなければ非難したこともないのである。このような日本でしか通用しようのない、政治における差別的慣行を終わらせることができなければ、日々悪化する日本のヘイトスピーチや差別煽動活動を止めることはできないだろう。

「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」を作った川崎市長が、最悪の差別に対しても差別を非難しない事がもつ社会的意味

川崎市は、昨年12月に「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」(差別根絶条例)を成立させたばかりだ。それは不十分ながらも、罰則付きで差別を一応は犯罪とするものであり、差別禁止法さえない反差別後進国日本では評価しうる条例だった。

その先進的であるはずの川崎市の首長がなぜ、差別事件が発生したまさにその時に、「差別は許さない」とたったの一言も言えないのだろうか?

しかも今回の差別事件は単なる差別ではない。

在日コリアン集住地域に近い、民族差別をなくす運動が勝ち取った象徴的な施設に対して、年賀状で「在日韓国朝鮮人をこの世から抹殺しよう。生き残りがいたら、残酷に殺して行こう」などとハッキリと朝鮮人虐殺を正当化し煽動する文言を送りつけた、極めて深刻な差別事件なのである。まして川崎市は1923年に関東大震災時の朝鮮人虐殺を経験した自治体ではないか。

私は差別はがき事件そのものよりも、川崎市長が差別に反対しなかったという事件のほうが、大事件だと思う。差別を知りながら差別を非難しなかった川崎市長は人種差別撤廃条約に違反している。なぜ差別に反対するコメントを出さなかったのか、マスコミは追求すべきであるし、議会でも取り上げるべきであろう。

神奈川新聞記事の注目すべき記述

今回の差別事件を報じる日本のメディアは、政治家が差別に反対しないことをニュースにしていない。これは問題である。

だが例外的に神奈川新聞の記事には注目すべき記述がある。

求められる差別の非難
【解説】
 殺害を宣言し在日コリアン市民を恐怖に陥れるという許されざるヘイトクライム(差別に基づく犯罪)が起きた。おぞましい文面が示すのは同じ人間とみなさず、共に生きる存在と認めない迫害の意思だ。川崎市には差別を非難し、否定するメッセージを急ぎ発信することが求められている

太字で強調した部分で記事は、川崎市が差別に反対の意思を表明すべきと書いている。不十分ながら、しかし大事な指摘であるので、ぜひ他社や他の記者もみならってほしい。

これはだが外国では当たり前のことなのだ。たとえば米国で2017年にシャーロッツビル事件(トランプ当選後にKKKらネオナチが大々的な集会を行った)発生時に、トランプ大統領の対応が糾弾されたことがある。だがそれはトランプ大統領が差別したからではない。彼が差別を批判しなかったことが糾弾されたのである。この件については、下記の共著本『フェイクと憎悪』でも書いたので読んでほしいのだが、差別事件時に政治家が差別に反対しないことを日本でも大ニュースにすべきではないだろうか。

『フェイクと憎悪』で書いたメディア向け提言の抜粋

上記の本で私は日本のメディア向けに3つの提言を行った。その第三の提言が、今回問題となっている政治家が差別と闘わない事じたいをニュースとして扱うべき、というものだった。大事だと思う箇所を部分的に抜粋しておきたい。心ある記者の方はぜひ参考にしてほしい。

 第三に、これも国際人権条約をモノサシにして、政治家の差別発言や、差別事件発生時の政治家のコメントを報道すること。性差別の例になるが、たとえば財務次官が記者にセクハラをおこなった事件について、閣僚や自民党幹部や野党議員ら政治家が、強く批判コメントを出さなかったことをニュースにするのである。せめて「……と○○氏は述べ、明確に差別を批判しなかった。」の一文を定型文にするぐらいは書いてほしい。かつてジャーナリストの本多勝一は文章表現での「紋切型」を唾棄した。しかし冒頭で紹介したトランプ氏を批判する報道のようなタイプの反差別報道は、ある程度「紋切型」あるいは「パターン化」しているとも言える。日本は反差別運動とメディアの差別批判が弱すぎて、「紋切型」の反差別文化さえつくれなかった。
 酷なことを言えば、欧米並みの反差別規範のない日本では、メディアが中途半端にマイノリティの声を取り上げた場合、その人を極右による襲撃やヘイトクライムの標的として差し出すだけに終わる可能性も高いのである。そんなリスクを取らずとも、メディア自らが人種差別撤廃条約をモノサシにして差別と闘わない政府、閣僚、政党、政治家を批判するほうがはるかにマイノリティにとって安全であり、反レイシズム1.0を築くうえで手堅い社会的効果がある。それができてはじめて、日本のメディアがマイノリティの声を紹介することも活きてくるのではないか。

条例の今後を占う試金石としての差別事件

このままでは、せっかく川崎市の例の条例が施行されたとしても、2016年のヘイトスピーチ解消法のように、ろくに機能しない可能性さえあるのではないかと考えざるを得ない。なぜなら差別を本当になくすためには、うまい制度や法律を設計しさえすればいいということでは全く無いからだ。差別をなくすのは、制度ではなく、人間である。日々の差別をみた実際の人間が(政治家から官僚、メディアから市民、マジョリティからマイノリティまで…)差別と闘うしかない。制度や法律が機能するのは、その過程のなかででしかない。

川崎市長の今後の動向を注視したい。

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