ヒューリスティックみたいなこと
他人と言うと拒絶反応を示されるけれど、他者と言えば示されない。コロケーションとか考えてものを言わないといけないけれど、日常的に考えている言葉を翻訳してしまうのはなんか変なような気もする。外側から形作られていくが、どこかで平衡状態を保って今がある。
写真とか言う捉えどころのないもの。メディアとして最近消化できるようになってきた。報道写真は勝手に切り取られてかわいそうなんて考える人もいるようで、安心してしまった。平たく言えば、魂を吹き込むということ。だけれど本当は、自分はこう思うのだから干渉するなということ。
「ああ!そんなつもりじゃなかったのに!!」
「わかり合えないことをわかり合う」こともできない世の中になってしまっているような気がする。やっぱり分からないという確認の作業をサボってはいけないよなあって思う。ただ、自分の中に本当のことを信じたいというおこがましさがある。そしていつでも、正当に評価してもらえるわけではない。
ヒューリスティックっぽいものってこんな感じだと思う。
考えるのをあきらめてしまわないように。すべての土台は、緻密な構造で揺るがないけれど、最上段にいる限りは価値は無いからなぁ。
無意識のうちに呼吸が浅くなってきてしまって、苦しくなってしまうことがある。ぼんやりとした生活、客体的な生活。
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