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書評でも感想文でもない③

今回も、浅田彰『構造と力』から一文を引用して1,000字程度で書いていく。



本題

さっそく引用してみる。

読者が常に間主観性において存在し、テクストが常に間テクスト性において存在する以上、白紙の心をもつ読者がテクストそれ自体と向き合うという図は幻想にすぎない。p.20

意味を嚙み砕いてみよう。


「読者が常に間主観性において存在する」ということは、本(テクスト)が「この私」だけを想定して書かれていないということだ

どういうことか。

テクストは当然ながら、多くの読者を想定して書かれる。

あるテクストを「この私」が読むとき、没頭していればいるほど、世界はまるで本と私だけかのように感じる。

しかし、そのように感じながら読んでいる私は、「この私」だけではない。

つまり<私>は点在していることになる。

このように<私>と「この私」を区別する考え方のモチーフは柄谷行人『探求Ⅱ』による。

テクストと「この私」の関係は点在していて、ただ一つではない。

ある一つのテクストに対してさまざまな「この私」が相互に関係し合っている。

その図は、あなたにとっての「この私」がさまざまな「この私」、つまり<私>のなかに存在していることを示している。

そして<私>同士もいろいろなプラットフォームを介して相互に関係する。

こうしてテクストを中心とした、一つに大きな関係図が完成する。

この意味で、あなたという一人の読者はただ一人で誰とも関係せずにいるのではなくて、他の読者と関係し合っているのである。


テクストについても同じようなことが言える。

「テクストが間テクスト性において存在する」とは、テクストが生み出された時点で、すでに他の過去の膨大なテクストたちと関係し合っているということである。

テクストがただそのテクストにおいてのみ書かれた、ということは想像できない。

必ずテクストの作成者には、多くの別のテクストが影響を及ぼしており、暗に引用しているからである。

また読者も、そのテクストを読みながら、これまで読んだり書いたりした別なテクストを暗に引用しているだろう。

以上より、テクストがただそのテクストにおいてのみ存在することはない。



知のジャングル

というわけで、何の知識も思考もない人間が、ただそのテクストにおいて書かれた未知のテクストを読むような図は現実たりえないのである。

なので、読者は常に間主観性、間読者性をもつのであり、本(テクスト)は間テクスト性、間本性をもつのである。

本文の文脈では、この引用部分は「難解な古典から読み始めるようなガキっぽさが、学問をしていく上で肝要だ」という主張からの流れだった。

難解な古典と一対一で真摯に向き合う必要など一切なく、雑食につまみ食いせよ、ということだ。

つまり500ページの難解な古典を一冊通しで読むことは推奨されていない。

むしろあらゆるテクストを「これは難しそうだ」と思いながら部屋のいたるところに積み重ねながら、ときには開きっ放しでかいつまんでいくこと。

浅田のいう「知のジャングル」とはまさにこのようなことだ。



まとめ

僕にも、買ってみたはいいけど、結局読み終えるのに何年もかかった本がいくつもある。

そもそも本は全部読み切る必要はないし、読み終えてから次へ取り掛からなければならないわけでもない。

このような姿勢を、浅田は「破廉恥に無節操に」と表現している。

いろいろな女性をつまみ食いするのは今の道徳には反するかもしれないが、かつての我が国は性に奔放だった。

今でも「色を知る」必要がある歌舞伎の世界などではむしろ賞賛されていたりもする。

性に真面目にありすぎる現代では、知にたいしてもどこか真面目すぎて、その結果、諸先輩方に人間力の浅さを指摘されても反論できないのではないか。

性に真面目、知に真面目、では浅田らのような人間としての底力は得られないのかもしれない。


最後に、僕が「浅田は性に奔放だった」と主張しているのでないことを、念のため書き示しておく。

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