配信『人間ライブラリ』2022年バージョン 観劇感想
久しぶりにnoteに観劇感想を投稿する。と言ってもライブ観劇ではなく配信観劇だ。
コロナ禍が始まった2020年にはまだ品質が安定していなかった舞台配信も、2022年の今となってはすっかりポピュラーなものとなり、途中で止まったり乱れたりすることもなくなった。特にアーカイブのある配信では、アクセスが集中するわけでもないため、一層の安定を得られる。
私も数え切れないほどの公演を配信で観劇した。生で観たことのある演目の配信は理解もじゅうぶんだが、劇場で観たことのない演目を配信のみで観る(これはまぁDVDでも同じだが)のはもったいないの一語に尽きる。しかしながら一方で、東京在住でない身にとっては、配信ほどありがたい観劇スタイルもないのである。
これまでは配信のみで観劇した作品の感想はnoteに書くのは控えてきたが(配信の接続レポの一環として多少触れたことはある)、今回初めて、配信のみで観劇した『人間ライブラリ』の感想を書いてみたいと思う。
この作品が如何にチャレンジングなものであるかは、主催の方の以下noteをご覧いただければよくわかる。
ストーリーもオリジナルだ。こちらは公演サイトから引用しておこう。
今回は2021年初演に続いての再演。出演者を3人から5人に増やし、演出も大きく変わっての公演となった。本当は劇場で拝見したかったが、大阪からこの短期間に合わせて上京するのは無理であった。
前置きが長くなった。以下、感想だ。
ひとことで言えば、とてもよい作品に仕上がっていたと思う。初演の持つ純真さを忘れることなく、よりダイナミックに変貌を遂げていた。
上記のあらすじにもう少し補足しておく。
成長型アンドロイドであるアイは、「人間の死」を体験するために、過去の人間であるアイの経験、感情をインストールし、トレースする。この過去の人間の名前が同じアイであることもあり、観ている人に混乱を来す。もちろん意図的だ。
初演のときは「わかりづらかった」という感想が多かったと聞く。それを解消できるようにか、アンドロイドのアイと人間のアイのシーン切り替えが明示されるようになっていたのは大きい。
話が逸れるが、私はレミゼやサイゴンの新演出があまり好きではない。どちらも新演出は同じ演出家なので当たり前かもしれないが、観客に解釈を押し付けてくるのだ。旧演出にあった、想像の余地というものを潰す演出だ。昨今のわかりやすさを求める観客に向けたゆえの演出であり、決して演出家の力不足ではないのだと思うが、あのような選択がなされたことを残念に思っていた。
しかしこの切り替えは、必ずしも悪ではない。初演のときであっても、きちんと心の動きを追えていれば、切り替えのタイミングは同じと判断できることが多かったはずだ。
しかし一方で、ちょっとしたことで切り替えのタイミングを数秒ズレて感じることもあったろうし、それがライブの醍醐味だということもできる。実際、人間のアイの記憶を引きずりすぎて、アイ自身がどちらのアイかわからなくなるシーンすらある。しかし古典物理学的には、切り替えのタイミングは一意に決まると考えるのが妥当であり、今回の明示はひとつの解だと思う。(量子論的には、切り替えが揺らぎを持つと考えることができる。これもまた美しい。)
よって、これもまたひとつの解釈の押しつけと考えることができなくもないが、個人的にはレミゼのそれよりは許容できた。
演じる側からすれば、演技がうまく切り替わらなくてもお客に伝わりやすくなったことは利点だろう。しかしなからこの変更に甘えることなく、きちんと気持ちの動きを切り替えて、ふたりのアイを行き来していたことに称賛を送りたい。
それ以上に素晴らしかったのは、ジョウ役の伊藤俊彦さんだ。私にとって伊藤さんと言えば2003年〜2004年レミゼのグランテールの印象が強すぎて、それ以外の記憶がほとんどないのであるが、20年近く経った今もその芝居巧者ぶりは健在であった。
ジョウも、アイと同じく過去の人間の記憶をインストールしてアイとともに時空を旅する。ジョウのその生き様がアイをも役者として成長させていたと思えるほどの存在感であった。実質上の主役である。
アンドロイドでありながら父となったジョウのアイへの愛情の示し方は、キモい。序盤であのキモさがリアリティを持って観客に迫ってくる様は圧巻だ。観客はあの勢いに飲まれたまま、人間ライブラリの世界に入り込んでいく。脚本と演技の見事なコラボレーションというほかない。
この舞台を一貫して支えているのは、ジョウの愛だ。ジョウの愛の渦に飲み込まれることこそが、この作品を楽しむひとつの王道だと思う。(が、いろんな楽しみ方があるのがエンタメの魅力でもある。)
そしてレイ役のtekkanさん。私の中ではサイゴンのトゥイであり、レベッカのベンだ。
初演のときのピアノがなくなってずいぶん楽になったとは思うが、レイはとても難しい役だ。一歩間違えばアイとジョウふたりのストーリーに埋もれてしまうし、かと言って出しゃばりすぎてもいけない。絶妙なバランスでその存在感を示していたと思う。
今や我々もAlexaやSiriが日常に存在する生活をしているので、ホームアシスタントの設定も難なく受け入れることができる。しかしただの音声アンドロイドではなく、ストーリーテラーとしての役目も果たしつつ、過去の人間界でも生きなれけばならない。
しかも、アイとジョウは、アンドロイドと人間の入れ替わりが明確な位置付けであるが、レイの場合はホームアシスタントのレイと人間のプロフェッサーレイにどんな関係があるか示されていないのだ。
また話が逸れるが、原作ではレイの存在感が薄い。舞台化で厚くされたものだと推測される。逆に言えば、この作品をもっともコンパクトに演出するとすれば、レイさえも音声のみにして、役者二人で上演することもできると思う。いつかそんなバージョンも観てみたいと夢想した。
しかし今作でのレイは、いなくても良いとはとても思えないほど重要な位置を占めていた。歌声も心地よく、この舞台がシリアスになりすぎないために非常によいアクセントになっていたと思う。
さて、再演での大きな変更のひとつは、コーラス&ダンスのおふたりが追加されたことだ。決してアンサンブルとは記載されず、コーラス&ダンスと紹介されていることにこだわりを感じる。
初演では映像でカバーされていた部分をコーラス&ダンスのふたりが実際に演じてくれることで、舞台としての厚みが増したと思う。
ただひとつだけ苦言を申すとすれば、オープニングの部分はやはりアイひとりの方がよかったと思う。ダンサーが周りにいることで、アイの思いがぼやけてしまう印象であった。
また関係ない思い出話で恐縮だが、2000年の東宝エリザベート初演のとき。当時はインターネットの掲示板というものもポピュラーではなく、意見や感想の交換はメーリングリストで行われていた。四季MLは賑わっていたが、それと並行してミュージカルMLというものがあった。そこに投稿されたエリザベートの感想で、東宝版のトートダンサー(とルキーニ)をケチョンケチョンに書いたものがあったのを今でも思い出す。特にトートダンサーに関して「フマキラー(殺虫剤)で蹴散らしてしまいたい」みたいなことを書いてあった。
今回のオープニングは、そこまで強い嫌悪感ではなかったが、あの人がトートダンサーに感じたのってこういう気持ちだったのか!、と、22年の時を経て初めて体感した感じであった(もちろん役者さんには罪はない)。
もちろん作品自体が進化中だ。よかったことも改善した方が良いこともあるだろう。初演、再演と極めて高いクオリティのものを見せていただくことができたが、まだまだ良くなっていく可能性を秘めた舞台だと思う。
最後になったが、この作品の何が素晴らしいかと言えば、音楽だ。国産のミュージカルと言えばどうしても音楽が陳腐になりがちなのであるが、この作品はテーマが斬新なだけあって、音楽の方もオリジナリティ溢れるものになっている。耳にも残りやすく、ミュージカルの楽曲として大成功だと思う。
欲を言えば終盤に一曲ビッグナンバーがほしいところであるが、それは、それに相応しい主演女優が見つかったときのためにとっておいてあるのかも、と有り得そうもない期待を密かに持っている。
さて、この作品は現在絶賛配信中だ。年内12/31まで。しかも破格の1,500円。少しでも興味を持たれた方は、ぜひアクセスしていただきたい(ちなみに私は回し者ではないイチ観客である)。
余談であるが、私は奇術愛好家だ。マジック界での他人のショーを見たときにひとまず褒めておく、とか、大したこともないのにすごいことのように喧伝する文化が大嫌いである。
それは演劇の世界でも散見されることで、見るたびにウンザリしている。
そんな私は、いつもこの言葉を思い出している。
この舞台が最高of最高とは言わない。しかし1,500円は実質無料と感じてしまうほどには素晴らしい体験ができることは保証したい。
ミュージカルの新しい可能性を求めるすべての人にオススメしたい。