自己充満性—欠乏を解消するため、思考は「目標と序列」を生み出した。しかしこれは偽りの欲望である



私たちは常に「自己充満性」へと至りたい。完全に満ちていて、喜びに溢れ、すべてが一体で何の対立もなく調和された充満している状態を望んでいるが、そうなるためには「欠乏」を埋めなくてはならない。
ゆえに、外界から、欠乏を「満たすもの」と「満たすためにどれほど役立つか」を読み込む必要が出てくる。ある対象物が欠乏を埋めるための目標となりえるか?なりえるならば、それを手に入れようとする。欠乏はすこし満ちるのか?それとも完全に満たせるのか?ならばより満ち足りる方を選ぼうとする。

こうして欠乏を満たすための「目標」を意味と呼び、「目標にとって有用の強度」を価値と呼ぶのである。それは意味があるという言葉は、「それは私の欠乏を満たす目標となる」という宣言であり、それに価値があるという言葉は、「それは私の欠乏を(他のものよりも)満たせるもの」という言明である。

そうして世界は多種多様な対象物へと分節される。

さらに、ある対象物と別の対象物の連想によって、その二つの「関連性」を生み出し、その二つの差と異なりから「序列」を生み出す。これが世界の思考形態である。

また望むものを手に入れるために「力(=できること)」への希求が始まり、より多くを手に入れ多くを失わないために「タイミング」という線形の時間への信念が起動する。
(もしも?…もし〜ならば?…と空想するのは欲しいものを獲得したときにどんなことが起こるかを確認し、そして完璧なタイミングで行動したい気持ちの表れである)

言い方をかえれば、世界に読み込まれているすべての意味は── あらゆる目標、期待、目指しているものは──主体/客体の分裂から生じている。外界を主体/客体(二元性)に分離させるからこそ、「主体である自己は欠乏し—それを満たすための客体が世界に存在する」という状態を設定するようになる。

しかし、この世界でどんなに望むものを獲得しても、決して「満たされない」ことが分かってくると、世界の中には意味はなく価値はないとはっきりしてくる。目指すべき目標はなく、そのためのランキングも今では役立たない。
(真の欠乏の原因は、何か形あるものが無いからではなく、「神と繋がっていない」ことによる不全感である。ゆえに神と繋がる意欲があれば欠乏は癒え、自己充満性が与えられる)

私たちの思考は、一つの構築物を考えれば一瞬にしてあらゆる連想が展開するようになっている。「世界のすべてのものには関連する様々な意味を持っている」ことを知らせるようにできているが、いわばそれは個々の構築物を組み合わせることで「何もないところに意味を与えている」のである。

例えば、ある子供は野球チームに入り、何年も一緒にプレーしてきた木製のバットが好きになる。その同じタイプのバットは、別の子の家庭では、父親が暴言を吐き、テーブルを壊し、自分を殴る道具として使用されていた。二人の子では木製のバットに対する意味合いが違う。一方はホームランを打ったときの楽しい思い出を想起させるものにもなれば、他方はパニックになり泣いていた思い出を蘇らせるものになる。この木製のバットは、二人にとって異なる連想を持っており、その意味は「自らが与えた意味」なのである。

この話の全体的なポイントは、それらは「すべて作られている連想」であるということだ。連想と関連づけは「試みる」ことができるだけで、真実ではない。無意味なものを有意味にすることはできないし、本当はできないことをできたと思い込むことで”現実”にしているのである。

私たちの心には、内側に知覚される混沌がある。それは出会いの場がない2つの思考体系。それらは相反しており、とても恐ろしい分裂を伴っている。その分裂は外界に投影されることで、主体と客体からなる「二元の世界」を映し出し、「尋常じゃない恐怖の二元世界」の中で秩序と正気を見つけようとする心の試みこそが、私たちの思考体系である。

そんな思考体系から意味(目標)を読み込むことで、思考体系の関連付けに基づいて”現実”の独自バージョンを構築したのが、我々が「世界」と思ってるものである。

この思考体系の序列づけと関連づけは、「聖霊の思考体系の同一性」を曖昧にしてしまう。「すべての同一性を見る心の中の光」は覆われてしまうのだ。
本当ならばその対象物には「一瞬ごとに与えられる完全に新しい目標と目的」がある。毎瞬毎瞬、まったく新しい完全に新鮮な目的があるものの、これは自我の思考体系の関連付けにおける、そこから読みこまれた「相対的な意味」とは何の関係もない。
(行動を検閲したり、話し方を意識したり、人の視線にに気を取られたりする自意識に取って代わるような目的がある)

全ての連想を放棄することが鍵である。
対立を存在させるには、何かと対立していなければならない。
主体/客体の分裂を超越するという考え方には、真の自由がある。
すべての同一性を見るという意図に集中して、「私は主体で、これは客体だ」「これは私が置かれているような状況だ」と注意が彷徨わせない。

すべての同一性を見る心の中の光を見るためには、思考の連想を放棄しなければならない。








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