自我による愛するとは、無である自己概念を素晴らしいと思うこと


相手の自己概念を「理解し、素晴らしいと思う」ことが、自我による愛の解釈である。理解しようとするからこそ、理解可能なものとなり、素晴らしいと思うからこそ、受け入れられる。受け入れられるものは同一化できるので、二人は「ひとつ」として融合できる瞬間をもたらす。
しかし自我はこの体験を独り占めしようとし、相手から奪おうとし始めるので、そうなれば相手のことを素晴らしく思うことは不可能となる。なにより実際のところ愛することを自我は分かっていないので、

他者の自己概念を理解することは、「複雑で移ろいゆく数多くの信念を把握すること」となるが、それは無であり無意味なものであるため、意味あるものにすることはできない。けれど理解可能だと思えば「理解し、賞美し、愛することができる」と自分自身に信じさせることになってしまう。自己概念は決して正当化できるものではない。

自我が他者から見出すのは、「信念」であり
聖霊が他者から見出すのは、innocenceとしての「Spirit」である。






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