老いて、なお
ノンフィクションライターの宇都宮徹壱さんが、自身のウェブマガジンで、先日引退した鹿島アントラーズの内田篤人選手に感じたことをこんな風に述べている。
「内田選手は100%の自分を出せない自分の現状について、今が引き際であると考えた。それに対し、現状維持に拘泥していた私を少し恥じている。」『キャリアの「引き際」を見極める大切さと難しさ 内田篤人の現役引退がわれわれに問いかけるもの』
それを読んで、沢木耕太郎さんのあるエッセイを思い出した。
それはエッセイ集『チェーン・スモーキング』の中にある「老いすぎて」という短編のエッセイである。
その文は、モハメッド・アリの試合会場で出会った白髪の老記者との会話と、当時40歳のジョージ・フォアマンのカムバックについて、アリが"Too old"とコメントしたことを比較し、
「ジャーナリズムという、80になっても現役でいられる世界に生きていけることの幸せを思うべきか、それとも40にして「老いすぎた」といわれなければならない世界に生きられなかった、そのことの不幸せを思うべきか、と。」『チェーン・スモーキング』
勿論、両方の文章の書かれている背景が異なることに注意を払わなければならない。沢木さんがこの文を書いたのは1990年代、沢木さん自身まだ40代だ。それに対し宇都宮さんが書いた背景は2020年であるし、宇都宮さん自身50代である。
特に宇都宮さんが書いた現代は、ライターについて厳しい環境である。紙の媒体は衰える一方、ネットメディアの原稿料は紙より低く抑えられている。そして、昨今のライターに求められるのが、「数字がとれる」ということ、丹念な取材より、キャッチャーな言葉であること。
これらの背景には大いに注意しなくてはならない。
その上で私は、まだ年を老いても、時代が変わっても、まだできることがあるではないか、と考えている。
私自身、肉体の衰えは日々感じている。宇都宮さんと同級生である私であるが、本を読むときに老眼鏡は欠かせなくなり、体力も落ちていると実感する。また、新しいこと(特にIT関係)を覚えることも苦手になりつつある。覚えてもすぐに忘れるということもよくあるようになった。
しかし、考えることだけはまだ止まない。
ジョージ・フォアマンも45歳でチャンピオンに返り咲いたように、老いが見え始めてからも、できることがあるように思える。
例えば、経験のあるものに、経験の浅いものが意見を求める、そんな場はこれから特に必要になってくるのではないか。
そんな風に思う。
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