「バリ山行」(松永K三蔵/著)のネタバレバリバリありの感想文

  芥川賞ってこんなに面白かったっけ…?
  これまでの芥川賞受賞作、候補作は大体読んでいるけれども、こんなに夢中になって読んだ純文学作品は初めて。
 それなりに忙しい毎日のなかで、時間を見つけては読んだ。続きが気になって仕方がなかった。
 物語の半分近くを、主人公・波多とバリ山行の超経験者・妻鹿(めが)さんとの二人だけの登山(バリ)シーンが続く。バリとはバリエーションの略で、通常の登山道でない道を行くことだそうです。

 その前のシーンはひたすら職場の人々、会社が傾きそうななかでの不安感、閉塞感、時々息継ぎのように訪れる無力で空疎な現実に終始する。登山も会社の仲間との円滑な人間関係構築の手段の意味が多い。
 そこから頭ひとつ抜け出ているように見える、妻鹿(めが)さん。他人と全くつるまないが仕事は出来る。この会社での位置が彼にとっては一番仕事やしやすいのだろうなぁと推測する。なぜなら私もそうだったから。いきなり自分語りになって恐縮ですが、新卒で入社した正社員のときはそれが許されずずいぶん苦労した。結果二十代で消化器系の病気をほぼ網羅したかという勢いで心身を壊し、それでもなぜか丸10年勤めて退職。もう組織に支配されたくないと決意して臨時雇用(派遣)で働き始めたけど、気がついたら社員より遅くまで残業してた。妻鹿さんみたいに誰もが認める有能さはたぶんなかったけど、なんというか一人で黙々と進める仕事は嫌いじゃなかった。派遣という立場に甘えきって人間関係を疎かにし(この小説内ではそれは『怠惰』だと看破。その通りです)、結果全然仕事しないおバカ同僚と一緒にいとも簡単に首を切られた。正社員だろうが臨時雇いだろうがニンゲンカンケイ大事デスネ。
 というわけで、転職組で、なんとか付き合いを大事にしようとする常識人の主人公・波多(はた)よりも、職場では常に規格外だが仕事で雑音を黙らせる妻鹿さんに私は共感を覚えた。
 全然関係ないけど、この妻鹿さん、外見は「典型的な縄文顔」とあるのだが、昨年見た映画『鬼太郎誕生・ゲゲゲの』に出てくる「山田」という登場人物に外見を重ねてしまって仕方がなかった。およそ縄文顔とは似ても似つかない、出っ歯でメガネの典型的日本人顔の彼なんだけど、仕事(雑誌記者)に対する情熱と一途さが、はにかみ屋の妻鹿さんにどこか雰囲気がよく似てると思ったんだ。で私のなかで妻鹿さんのビジュアルは完全に『ゲ謎』の山田と重なりつつ、物語を読み進めていくことになった。
 毎週末のバリ山行を頑なに会社の人に言わない妻鹿さんと、同僚との人間関係構築のための登山に励む主人公との出会いが丁寧に綴られていく。とにかく読みやすく、面倒くさそうな職場の事情もつるつると頭に入っていく。
 ちょうど物語の半分ぐらいで、波多が妻鹿に頼み込んで、ついに二人だけのバリ山行のシーンに突入。ここからラスト近くまで、山、山、また山の描写。でも飽きない。もっと読みたい。順調に道なき道を行き藪のなかを進む波多と一緒に、どきどきわくわく初めてのバリ山行。けれども、やっと人間の拵えた道に出たぁと思ったら再び深い藪の道に再入場するリーダー・妻鹿。だんだんこれは何の罰ゲーム可と思い始めてくる。それでも山の情景は美しい。
  藪、蔦、棘は容赦なく波多の頬を刺してくるなか、妻鹿さんとの考え方の相違に、波多の胸に戸惑いが生まれ、それはだんだん苛立ちに姿を変えていく。
 (文藝春秋掲載分の)p439『私の中で何か堅いものが打(ぶ)つかる音がした』と表現される、心のすれ違いと反発。そして「波多くん、急ぐなぁ! 慎重に――」って言われてるのに先を急いで足を滑らせ、結果妻鹿さんに助けられる。
 危うく命を落とすところだった危機に、波多の心は疲弊していく。バリ山行は無常にもここからが本番とばかりに、バリが続く。
 そしてついに波多に爆発のときが訪れる。彼は、肚のなかの鬱憤を全て相棒にぶつけてしまう。
「向き合うのは山じゃなくて、生活ですよ!」
 双方の言い分がよく分かる、つらい場面だ。だけれども妻鹿さんはそんな相棒に一言も言い訳することもなく「……行こっか」と言って先を行く。
 長い長い長い山道が続く。疲労困憊の波多の前に聳え立つ過酷な大自然。
 そこにあるだけなのに、自ら入ろうとする者には容赦なく制裁を加えてくる大きくて恐ろしい力を感じる。
 なんとなく「触らぬ神に祟りなし」という言葉が浮かんだ。
 捻った足首は痛むし、雨も降ってきた。だけれども、ようやく白い街の灯りが見えてきて、やっと旅の終わりが来る。そこでバディも崩壊する。
 人間世界での出来事が一段落し、全ては元通りに戻るかに見えた。だけれども、波多はここから変わっていくのだ。ここからが本当の読みどころ。
 波多は、一人で山に向かう。もう会えなくなった妻鹿さんとそっくりの装備をして。少しずつ、共働きの妻との間に風が吹き始める。それでも休みが取れれば山に行く。一人で山に入ることによって得る、妻鹿さんの言っていた体の感覚。まるで妻鹿さんの想いの追体験をするように、波多は山を行く――。なんだか新田次郎の『孤高の人』を思い出した。この主人公もいつも山に一人で入り、一人で山を登る間は山に愛されていた。だけれども、結婚し、ある友人から誘われて初めて他者と一緒に山に入った夜、二人は遭難するという物語だ。
 ところで私はバディ物と呼ばれる物語がとても好きなのですが(いきなりどうした)、ここまで読み進めてきたとき、『バディの喪失』というサブタイトルが浮かんだ。そしていなくなった相棒から、彼の意識を受け継ぐ物語なのか、そういう話なのかと結末を想像した。だけれども全然違った。
 喪失どころか、深い山のなかで確かに相棒の存在感を覚える幕切れ。もう見事!としかいいようのないラストではないか。
 私が傾倒する私の頭のなかの腐ったバディものの範疇などに入る小説ではなかった(当たり前だ)
 大事に何度も読んでいきたい小説だった。
 丁寧、かつ大胆。本来ニンゲンカンケイって、そうあるべきなのかもしれない。
 
おわり


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